2004・3・21     小 石  泉

ぶどう酒のように


 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。マタイ25:14〜30


 ここは有名なタラントの例えです。タラントとは直接には重さを表す単位で1タラントは約35kg。通貨の場合6000デナリ、約6000万円です。5タラントの僕は3億円預かったことになります。(新聖書辞典)大変な額です。この言葉からタレントと言う言葉が出来ました。それは才能を意味します。
 イエス様は忠実な働き人と不忠実な働き人について語られました。ここで明白なことは人間には能力に差があると言うことです。これは確かにそうです。人間には明らかに能力の差はあります。それも5:3:1でなく5:2:1という絶妙の数字で表されているように、特別に優れた人と普通の人と駄目な人です。
 しかし、この箇所では5の人へのほめ言葉と、2の人へのほめ言葉が全く同じであることに注意してください。問題は1の人です。この人は能力が無かっただけではなく、消極的だったのです。もし1なりに積極的にがんばれば同じほめ言葉をいただいたでしょう。実は能力の差は問題ではなく、物事に対する姿勢に問題があるのです。
 実際、例えば有名大学を卒業したからと言って、その人が、その後、成功するとは限りません。イエス様はそのことを言いたかったのです。

 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。ヨハネ3:1〜12(口語訳)


 ここでイエス様は神の国の大原則を語っておられます。神の国とはイエス様の言葉では天国のことであり地上の信仰のあり方、直接的には教会のことです。
 神の国には水と霊から生まれなければなりません。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊です。教会では肉の才能、肉の方法が、そのまま用いられてはならないのです。しばしば、ここに問題が起こります。才能豊かな人でも、教会では、そのままでは役に立たないのです。これが理解されないためにどれほど多くの悲劇と問題が教会に起こっていることでしょう。
 注意していただきたいのは、人間の能力が全て否定される訳ではないのです。ただ霊的に生まれなければ、用いられてはならないのです。これを理解するにはぶどう酒を参考にすると判りやすいでしょう。
 ぶどう酒はぶどうを摘み、それをしぼってジュースにします。このジュースだけでもおいしいのですが、ジュースはすぐに腐ります。そこでジュースを発酵させます。肉のままの性質、才能は腐敗してしまいます。考えようによっては、発酵も腐敗です。すなわち肉に死ぬことです。そうです肉の人は一旦死ななければなりません。

 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。Tコリント15:35〜44

 「あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。」これが神の国の大原則です。肉の人は死ななければ生かされないのです。この世の才能、方法は神の国、教会では、一旦、死んで霊のものによみがえらなければ用いられてはならないのです。
 ぶどう酒のように、ジュースのままではなく、発酵する期間を待たなければなりません。あの偉大で有能なパウロでさえ、伝道に出る前に、一旦アラビアに退き、長い祈りと思索のときを過ごしました。

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。Tペテロ1:23

 これまで教会では、私たちの能力、性質が全て否定されると考えられてきました。しかし、そうではありません。そのままで良いのです。ジュースが無ければぶどう酒は造れません。これが判らなかったために、どれほど有能な人々が教会では無能になってしまったことでしょう。大量の良いジュースが無駄に捨てられてきました。良いぶどう酒は良い年のぶどうジュースから造られるではありませんか。
 あなたの才能を神の前に全て捧げなさい。しかし、決してそのままで用いられるのではなく、一旦、霊のものに変えられてください。そうでなければ良い働きは出来ません。