2004・3・7 ホームページメッセージ 小 石 泉
塵のように灰のように(キリスト教の真髄)
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
イザヤ53:1〜12
メル・ギブソンという俳優が作った映画が話題となっています。それはキリストの生涯をリアルに描いたものだと言うことです。特に十字架の場面がものすごくリアルで、見た観衆の内の老婦人が気絶し死んだと言うのでさらに話題になりました。
私はこの映画を見たわけではなく、どういう結末になっているのか知りません、ただ、十字架のシーンをちょっとだけテレビのニュース番組で見たのですが、その通りだったのだろうなと思いました。そして今のキリスト教会への警鐘になればいいなと思いました。
というのは、あまりにも今日のキリスト教会が本来のキリスト教とはかけ離れた方向に向かっているからです。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。マタイ11:29
昔、トマス・ア・ケンピスと言う人の書いたと言われる、イミタチオクリスチ「キリストに倣いて」と言う本がありました。ありましたと言うのはおかしいのですが、今はそれほど読まれなくなったからです。しかし、これは古今の名著と呼ばれ、昔のクリスチャンは必ず読んだものです。その中心的主題はキリストに倣う、その謙卑(謙遜でへりくだったこと)に倣うというものです。イエスさまの第一の御性質は謙遜です。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。ピリピ2:6 〜9
私はクリスチャンの第一の目的はこのキリストの謙遜に似ることだと思います。だからと言って私がそうなっていると言うのではありません。それどころか自分自身の中に巣食う、傲慢、競争心、名誉心のしつこさに辟易しています。しかし、神の御心を聖書から尋ねると、そうなるのです。そして、今のキリスト教会がこれとは正反対の方向に進んでいるとしか思えないのです。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。ヨハネ14:12
この箇所から、今日の、ペンテコスト・カリスマ運動は「もっと力を」と求めます。リバイバルを、癒しを、奇跡を、私を超能力者にしてください、と。
確かに、一面でこれは正しかったのです。教会はキリストのダイナミックな力を失っていました。しかし、大切なことを忘れています。それはキリストの御性質を持つということです。もし、私たちがキリストの謙遜を持たないで、力だけを持ったら、それは危険極まりないと言わねばなりません。謙虚さを失った者が権力を握ったときの惨状は某国を見れば判ります。気違いに刃物というではありませんか。
キリストの謙遜を学ばないで、力だけを求めるなら教会は喧騒で虚栄に満ちた場所となります。
互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。ガラテヤ5:26
のです。キリストの御性質は謙遜、サタンの性質は高慢です。
「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。エゼキエル28:12〜19
この箇所は、ルシファーがサタンとなった経緯を表していると考えられています。神の最も御側近く使えた天使長ルシファーは高慢になり、神のようになろうと考え、サタンとなりました。これは実に不思議なミステリーですが、真実の記録です。
ですから罪のうちで最悪の罪は高慢です。高慢な人はサタンの性質に似る者となります。クリスチャンの最も求むべき賜物は謙遜です。私たちはキリストに似る者とならなければなりません。冒頭のイザヤ書の預言のように、この世では賞賛されず、何の評価も受けず、毛嫌いされるかもしれませんが、神の前で喜ばれる功績はどれぐらいキリストの謙遜に近づいたかであって、どれぐらい大きな業をしたかではありません。塵のように、灰のようになってキリストに似る者となる、それがクリスチャンの目的です。それが本当に、本当のキリスト教の真髄です。