メッセージ 2004・2・29 小 石 泉
何をしているのかわからないのです
オウム真理教の麻原の判決が近づいた頃、テレビや新聞があの事件の報道をしていました。それを見ていると、改めてあの事件の恐ろしさがひしひしと伝わってきます。あれは本当に奇妙な出来事でした。人もうらやむ優秀な大学を出た青年たちが、いとも簡単に、単なる自己顕示欲の強い狂人について行き、自分自身を破滅し、他人を破滅させて行きました。
奇妙なヘッドギアなるものをつけて、横たわっている多くの若者の映像を見ていると、私はイエス様の言葉が思い出されてきました。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。ルカ23:34
彼らは、優秀な頭を使って、恐ろしい毒ガスを大量に作っていたのです。もしあの地下鉄事件が無かったら、もっともっと大量のサリンが作られ、数万、数十万人の人々が死んだかもしれません。私はむしろどうして麻原があんな少量のサリンしか出来てない時にあのような事を実行したのか不思議でした。実験をしてみたかったのでしょうか。日本の多くの国民は平凡な日常生活の中から、突然、不気味な集団が自分たちを殺すために着々と準備をしていたと言う、不可解な事実に直面しました。美しい富士山の麓の醜悪なサティアンから大量に運び出されるドラム缶の数に唖然としたのは私だけではないでしょう。
しかし、オウムだけではありません。この国で多くの若者が「何をしているのか自分でわからないのです。」そして、それは若者だけではありません、老若男女、全ての人が実は「何をしているのか自分でわからない」でいます。
かつてある人が私に彼の出版した本をくれました。その題名は「南無陀可和観内教のすすめ」というものでした。「なんだかわかんない教」です。人生って何だか判らんという内容でした。生きるってなんだろう。死ぬってなんだろう。人生にどんな意味があるのだろう。ああ、わかんない。
オウム真理教に入った若者たちも実は人生の意味を捜し求めていたのでしょう。彼らは、むしろ人生をちゃらんぽらんに生きようとしないで真剣にその意味を求めていたので、麻原と言う誇大妄想な人間が素晴らしい真理の解明者に見えたのでしょう。しかし、麻原も自分たちを変わらない盲人に過ぎなかったのです。
イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。ルカ6:39
イエス様は自分を十字架に釘付けし、その下で自分の衣類をくじ引きする兵士たちを見ながら、神に祈りました。「彼らをお許しください、何をしているのかわからないのです」。
このような祈りの前には許されない罪は無く、救われない人は居ないでしょう。もし救われないとすれば、それはこのような祈りを無視し、自らの力で罪を清め、救われようとする態度です。しかし、それすら一般の人には何が何だか「わからない」のです。「何で許されなきゃならないんだ?」。
宗教と言うものは人を幸せにし、行く道を教えるものと思われていますが、実際には人を束縛し、破滅させてしまうことの方が多いことに恐ろしくなります。宗教は簡単に権力となります。この国ではある宗教は政治の強力な権力です。もっともそれは欧米でも同じでした。
さて、奇妙な言い方に聞こえるかもしれませんが、このイエス様の祈りはどこまで有効なのでしょうか。つまりこれは神の最後の審判、永遠の命と滅びに関わるものなのでしょうか。恐らくこんなことを考える人はあまり居ないと思うのですが、私は考えてしまうのです。
何をしているかわからない罪と、何をしているかわかっている罪があります。まだキリスト教が国の前提となっていない日本のような国と、すでに何百年もキリスト教の歴史があり神と言えば聖書の神以外の言葉が無いような国では違いがあります。例えば日本では多くの偶像礼拝が行われていますが、イスラエル人やアメリカ人が偶像礼拝するのとでは違います。日本人の場合、全能者である神という概念がほとんどありませんから、偶像を神として拝むことに違和感はありません。しかし、イスラエルや欧米で偶像礼拝する場合は、まず聖書の神を否定するという過程を通らなければなりません。(今日ではその違いはかなり薄くなっていて、欧米人でも神という概念がわからないことが多くありますが。)
欧米では歴史上サタン礼拝が非常に盛んです。これらの礼拝は神への冒涜、キリストへの侮辱が必ず行われます。その細部について、私はいくらか知っていますが、ここでは話せません。彼らは「わかっていて」罪を犯しているのです。もともとルシファー、サタンは全能の神を知っていて反逆しました。同じように欧米のサタニストは聖書の神を明白に認めて、それから冒涜と侮辱と呪いを口にするのです。このような罪は許されることはありません。
しかし、私たちの周りのクリスチャンでない人々は「何をしているのかわからない」のです。まだ、希望は残されています。何とかして伝えたい。そうでないと第二、第三、第四のオウム真理教が生まれてくるでしょう。いや、すでに沢山あるに違いなのです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。ヨハネ9:4
今はたそがれ時です。あまり時がありません。