2004・2・22 メッセージ 小 石 泉
初めの愛に
この頃、何か信仰の喜びがない。毎日が重荷だ。そんな思いを持つことがありません。もっと新しい、もっと力強い、もっと霊的な、もっと興奮するような刺激は無いかな。私もそう思うことがあります。一生懸命信じてはいるんだけど、何か、けだるい倦怠感が覆う。
今日は信仰のマンネリ化の危険について考えましょう。
わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。黙示録2:2 〜4(口語訳)
エペソの教会に対して主イエスは、その労苦と忍耐、真実な信仰をほめています。しかし、そのような最善の信仰にも落とし穴がありました。それは初めの愛から離れてしまったのです。
さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。エレミヤ2:2
イスラエルはモーセに率いられてエジプトを脱出し、神様が紅海を割る奇跡を見、マナによって養われ、ヨルダン川をせき止めていただいて渡り、カナンの地を獲得しました。しかし、いつでも神の大きな業と守りが過ぎるとイスラエルは恵みに飽き、つぶやき、神に反逆しました。
私たちは自分のことを考えてみましょう。この世にあって、生きる意味さえ見つからず、望みも無く、生きるのに疲れ果てて居たのではなかったですか? そして主イエスに出会って、その愛と犠牲を知り、救われて永遠の命を与えられ、聖霊に満たされ、感謝と喜びに溢れたのではなかったですか?
あの若き日の神への愛、初めの愛が、今はどこに行ってしまったのでしょう。あのころの神への誠実、愛、従順はどこに行ったのですか。時には献身すら考えたのではなかったですか。あのころはそれで十分満足していたのでは無かったですか。イエス様の十字架だけでは足りないのですか? 神様に出会ったあの驚きと喜びでは、もう満たされないのですか? あなたは成長したのですか? それとも増長したのではないのですか?
私たちは良くリバイバル、リバイバルと言う言葉を聞きます。何かもっと刺激が欲しい、もっと興奮する経験が欲しい。ああ退屈だ。ああエジプトにいて肉鍋のそばに座って・・・。
私たちはもう一度、初めの愛に戻るべきです。あの、初めて主に出会った日に。そして最初に開いた聖書に。それは、ほとんどの人には次の箇所ではないでしょうか。
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。マタイ5:1〜12
山上の垂訓。(蛇足ですが、この垂訓と言う言葉も今の若い人には判らないようです。垂とは上から下に下がること。垂線、垂直線の垂です。訓は教え。主イエス様から下る教えです。)
もう一度、このたぐいまれな言葉を見つけた驚きを思い出しましょう。この世の基準、競争、確執から遠く離れた、永遠に気高い人間のあり方への教え。それを何の言い訳も理屈も解釈も無く、ただ率直に受け入れたあの日々のことを思い出しましょう。
義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。イザヤ51:1(口語訳)
前に進むときもあるでしょう。しかし、時には後ろを思い出すことも必要です。神の言葉の一つ一つに心ときめかした日々を思い出すことも必要です。初めの愛をもう一度あなたの胸に。