2004・2・8                      小 石  泉

すべての造られたものに


それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。マルコ16:15 〜16

 私は時々、ホテルで結婚式をします。最初のころは少し後ろめたい気持ちがありました。何しろ全くクリスチャンでもない人が、たまたまウェデイングドレスが着たいだけでキリスト教式を希望するのだろうと思っていたからです。しかし、この頃は本当に喜びを持ってやるようになりました。その理由は二つあります。一つは素晴らしい証の機会であること。もう一つは式を希望する人々が思った以上にまじめで真摯な態度だからです。
 ほとんどの新郎新婦は未知なるキリスト教にどういう態度をとったらいいのか戸惑いながら、最大限の敬虔さを表そうとします。また、式にはただ新郎新婦だけが来るのではありません。親族友人、毎回、50人から100人の人が出席します。彼らは、今までの人生で一度も見たことのない厳粛さ、味わったことのない感動を体験します。多くの場合、ほとんどの人々が真面目に出席されます。そして私は彼らの前にクリスチャンを代表して立つのです。彼らの多くは私以外にクリスチャンや牧師を見たことのない人々です。そしてそれが最初で最後かもしれないのです。これは考えようによっては非常に重大な責任です。ですから私は何とかしてキリスト教の片鱗でも味わっていただこうと心を砕きます。そのためか非常に喜ばれ、また好評を得ているようです。
 さらに、今、日本の一般の教会に全く新しい人々を一度に50人、100人と迎えることが出来るでしょうか。それはほとんど不可能です。その意味でも奇妙ではありますが、日本独特の伝道形態が出来ているのです。もちろん、そのままクリスチャンになると言うことはありませんが、あと一息だと思うことが多いのです。
 そんな経験を通して、私はクリスチャンには、ある種の錯覚があるのではないかと思うようになりました。それは、神様は自分たちのためだけに存在すると言うものです。

わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。ヨハネ10:16

 もちろんこれは、ユダヤ人と異邦人のことですが、ほとんど同じような意味で今日の教会と未信者の関係になっていないでしょうか。私たちはいつの間にかユダヤ人のようになっていないでしょうか。自分たちは選民、他の人たちは異邦人。かすかな思い上がりがクリスチャンの中にないでしょうか。特に日本のように福音の伝達に困難な国では、その壁がいつの間にか自閉症的な壁となって、自己満足、他者への偏見と差別になっていないでしょうか。イエス様はユダヤ人に言われました。

『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。マタイ3:9

 実は信仰者と非信仰者の壁は思ったよりも低く薄いのです。神様は未信者の神でもあります。彼らも神の愛と守りの中にあるのです。

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、エペソ2:14


 私たち自身が隔ての壁を作ってしまっていないでしょうか。

「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」マタイ8:6〜12

 ローマのセンチュリオン(百人隊長、旧日本軍なら大尉、自衛隊なら一尉)はイエス様を驚かせるほど純粋な信仰を持っていました。それは恵みに慣れて尊大になったユダヤ人にはない謙虚で真剣な信仰でした。私たちクリスチャンも気をつけないと同じような間違いを犯します。「御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」というのはユダヤ人だけではないかも知れないのです。
 さらに、私は伝道の一つの方法として、終末論を中心とする本を書きました。それは驚くほど関心を持たれました。この本を通して多くの方々が救われました。また、今週の水曜日には千葉県のある業界大手の社長さんと会うことになっていますが、この方の本棚には私の本が全てそろっているそうです。
 イエス様は終末と再臨について次のように言われました。

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。マタイ24:36

 この箇所から終末や再臨について話すことは間違ったことだと言う誤解がクリスチャンにはあります。しかし、イエス様は弟子たちの質問に答えて、その「前兆」について語ることを拒みませんでした。

イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」マタイ24:3

 この弟子たちと同じように、人々は未来について知りたがっています。「これから世界はどうなるのですか?」 そういう質問が至る所で聞かれます。これについていろいろな専門家や宗教家や占い師が発言しています。しかし、本当に正しい未来を知っているのはクリスチャンなのです。それなのにキリスト教会はほとんど未来について語りません。いつも過去の話ばかりで、未来について話すことを嫌い、話す人を危険視します。そして絶対に来たことのないリバイバルなどという、ゆめまぼろしを熱心に求めます。私がクリスチャンになって40年間、このリバイバルと言う言葉を聴かなかったことはなく、そして来たことは一度もありませんでした。私たちは不確実な希望ではなく、今、現在、出来ることをすべきです。
 聖書は正確に未来について書いています。私たちはそれを正しく人々に告げるべきです。
私たちはまず自分の中に隔ての壁を作っていないか調べて見ましょう。そして心を開いて人々の求めを聞きましょう。それがすぐには効果を表さなくても、いつか花開くことを期待しましょう。イエス様は「すべての造られたもの」に福音を語れと言われたのです。
 
豆知識
 東京電力が昭和55年に、それまで続いていた『婦人セミナー』の講演要旨をまとめた『女性史への誘い』という小冊子に、読売新聞婦人部長金森トシエという人が次のようなことを書いています。「明治に入って居留する外人が多くなると、あちこちに教会ができ、日曜の礼拝や教会での結婚式をする人がでてきた、それにヒントを得て東京の神社の神主さんが、神前結婚式を発案したと言われています。」それまで日本の結婚式は自宅で質素な着物のままで簡単に済ませていたそうです。角隠し、内掛け、振袖の挙式は明治半ばから、この神前結婚式で始まったものだそうです。意外ですね。