2004.2.1 小 石 泉
恐怖の種と平安の種
私の友人のある兄弟(クリスチャンは男性を兄弟、女性を姉妹と呼びます)は和歌山でブティックを経営していました。しかし、御多分にもれず不況のあおりで倒産しました。その後、神戸に行って就職を探しましたが、中高年に良い就職先はあるはずもなく、近頃はやりのリフォーム会社、色々テレビを騒がす類のところに入りました。彼は屋根の壊れた家を探しては次々と注文を取り、一ヶ月で会社のNo.1の成績をあげました。しかし、あまりにもあくどい会社の方針に嫌気がさして退職しました。次に健康器具を売り始めましたが、これまたNo.1。
そんな兄弟が私のところに来て一日を過ごしたのですが、彼は私にこういうのです。「先生、セールスのコツは恐怖の種を見つけることです。」「恐怖の種?」「そうです、例えば屋根瓦がちょっと割れていても、台風が来ると危ないですよ、というだけで相手は心配になって契約します。何でもそうですよ、ファッションだって、流行に遅れますよというだけで女性はあわてて買うのです。生命保険もそうでしょう。健康食品、老人ホーム、なんでも恐怖の種を見つけ出して指摘したら、みんなあわてて買います。」
なるほど、「恐怖の種」とは面白いと思いました。考えてみれば世の宗教もそうですね。あなたにこんな災いが来るのは先祖のたたりです、そういうだけで急成長した宗教団体もあります。人は皆、恐怖の種を自分の中に持っているのです。
有名なヨブ記には次のような言葉があります。
私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。ヨブ3:25
裕福で何不自由なかったヨブは、その立場を失うことを恐れていました。その結果、それは来たのです。歴史上、王たちもいつも恐怖の種を身に持っていました。生まれたばかりのイエス様を殺そうと計ったヘロデ王は、自分の地位を奪われることを恐れて自分の子供をみんな殺したということです。
人間は実際に来る災難よりも、災難を恐れることでもっと苦しむと言います。自分だけは詐欺に引っかからないぞと思っている人ほど詐欺に引っかかるといいますが、そこにも詐欺に対する恐怖の種があるからでしょう。人間の心の底にある、おびえ、恐怖は人間を苦しめます。人間はどこかでいつも何かを恐れているものです。
一方、イエス様の言葉はいつも平安の種を与えます。
その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。マタイ10:12〜13
ヘブル語で平安はシャロームですが、彼らはいつも歴史の中で不安と恐怖に追いかけられて来ました。だからこそ挨拶に「平安」というのでしょう。エルサレムはエルシャローム、神の平安という意味です。(現地ではイエルシャライムと言いますので、別の意味かもしれません)他にシャロンの野とかソロモンもシャロモンです。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。ヨハネ14:27
もしあなたの中にいつも不安があり恐怖があったらイエス様の言葉に聞いてください。本当にイエス様の言葉はいつでもまるで静かな池の湖面のように静かです。耳を澄ませて聞いてください。そして従いましょう。そうすれば驚くべき平安が来ます。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。ピリピ4:6〜7
キリストの言葉はこの世に生きるために有益なのです。