メッセージ   2004・1・18   小 石  泉

人間の完成(なぜ、神は罪と悪を許されたのか)


そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。創世記1:31

 神様が天と地を創造されたとき、すべては「非常によかった」のです。宇宙は完全であり、すべては調和がとれ、美しくて清らかでした。神様の御性質そのままです。しかし、その後、宇宙の中の銀河系星団の太陽系の第三惑星、地球だけが罪と悪に汚染されました。この星には死があり、病気があり、戦争があり、貧困、偽り、裏切り、嫉妬などありとあらゆる罪と悪がはびこっています。どうしてそんなことになったのでしょうか。神様の計画に何か間違いがあったのでしょうか。神様はサタンに敗北されたのでしょうか。

わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。イザヤ5:1〜7(口語訳)

 この箇所を読むと、神様の御心がよくわかります。神様は最善をなさいました。しかし、人間はその期待に答えなかったのです。「主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」という言葉など神様の痛切な思いが滲み出しています。
 ではどうしてそんなことにならないように、世界を創らなかったのでしょう。世界が美しく、善であるままで続くようになさらなかったのでしょう。
 罪と悪を知らない善は、本当の意味で善ではありません。それは幼稚で、虚弱で、空虚な善です。イノセントという言葉があります。幼子のような無邪気さを表します、しかし、それは大人の善ではないのです。罪と悪を知って、その上で選び取った善こそ本物の善なのです。人間は罪と悪を知らなければ無邪気ではあっても、完全ではありませんでした。
人間が完成されるためにはどうしても罪と悪を知る必要がありました。その上で、罪を退け、悪に打ち勝ち、神を求めるのが人間に期待されていたのです。しかし、人間の歴史は人間がその期待に応えなかったことを証しています。それどころか人間は罪と悪に勝つことが出来ないことを証明しました。人間は罪に対しては、どうしようもないほど弱いものです。まして、神の求めたもう正しさの基準にははるかに及びません。
 タバコを吸いながら「宗教なんて弱い人間のすることだよ」と言う人がいます。「あなたは強いのですか?」「もちろんさ」「では、そのタバコをやめてみませんか」。
 悪いとわかっていても、タバコを止める事でさえ、脂汗の滲むほど苦しいことではありませんか? あなたはそんなに弱いものではありませんか?
 そして、この弱いものを救うためにキリストはやって来られて、神の求めたもう基準を満たすために十字架にお掛かりになりました。

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。ヨハネ19:30

 イエス様が「完了した」といわれた時、人間の救いが完了しました。そしてそれは善を完成させることが出来なかった人間の完成でもありました。人間は自分の力では罪と悪に勝つことは出来ませんでしたが、少なくとも罪と悪を学ぶことは出来ました。
 イエス様を救い主と認め、自分の罪が十字架によって清められると信じた者は、自分では完成できなかった善の基準、完成を選び取ったのだと言えます。人間の善はイエス様によって完成されるのです。さらに言うなら、これは天地創造の完成でもあります。物質的な天地は人間がキリストによって完成したとき霊的に完成したのです。

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。創世記2:9

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。3:22〜24


 人間はエデンの園で善悪の知識の木の実を食べました。しかし、いのちの木の実は食べ損ないました。そこで神様は罪ある人間がいのちの木の実を食べて、罪あるままで永遠に生きることのないように、エデンから追放し、その道を炎の剣で封鎖しました。
 やがてイエス様がこの地球にこられて罪の贖いをされ、いのちの木の道を示されました。「わたしは道であり、真理であり、命である」
 この道をたどる人にはいのちの木が見えてきます。

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。黙示録22:1〜2

 罪と悪を知って、選び取った善を勝ち取った人間にだけ、神様はいのちの木の実を食べさせてくださいます。どうして罪があり悪があるのか。それは人間を完成させるために、どうしてもなくてはならない学校なのです。サタンとその陣営はそうとは知らずに神の業のために動いているのです。