メッセージ 2003・12・21 小石 泉
エクレシア
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
詩篇133:1〜3
見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。(口語訳)
エクレシアとはギリシャ語で教会のことです。これは教会の姿です。一つになって共に住む、和合して共にいる。それは地上で最も美しく楽しい場所であるのです。もっとも私たちにはユダヤ人が美しいと思う表現が、どうもぴんと来ないのですが。油が頭から流れるのを日本人は美しいと思いません。しかし、この油は尊い香油です。それは聖霊を表しているのです。教会は聖霊によって作られるとき美しく楽しいのです。
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。使徒2:41〜47
これは教会が最初に出来た時の様子です。彼らは資産や持ち物を売って平等に分かち合っていました。しかし、これを今することは不可能です。当時は今とは違ってローマの占領下にあり明日をも知れぬ時代だったのです。ただ、このような愛の一致があるのが教会なのです。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1:23
キリストの体。一切のものが満ちているところ。なんという表現でしょうか。それに引き換えわれわれの教会の何とみすぼらしいことか。しかし、信仰の目で見ましょう。そのような教会を作っていただきましょう。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。2:19〜22
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。4:16
ここに、私が大好きなメッセージがあります。(礼拝ではオーバーヘッドプロジェクターで絵をお見せします。)
一個のレンガがあります。しっかりと焼かれて硬い立派なレンガです。そのようなレンガが沢山積まれているところを想像してください。そのレンガの山を見た人々は「ああ、立派なレンガの山ですね。」と言うでしょう。しかし、このレンガが職人の手によって適切に積まれて、建物が出来たとします。それを見た人々は「ああ、立派な教会ですね。立派な神の家ですね。」と言うでしょう。
ここで注意してください。「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとな」った時、レンガは忘れられます。もし、そこで目立つレンガがあったらそれは何か問題があるのです。美しく組み合わされたレンガの建物は、建物が意識されるのであってその素材が意識されることはありません。
同様にあなたが教会に組み合わされたとき、あなたは忘れられ、神の住まいが人々に認識されるのです。私たちが最も適切に機能しているとき、私たちは忘れられなければなりません。覚えられるのは、あなたではなく神の家、キリストの体です。
しかし、どんな小さなレンガでも一つでも欠けたら神の家にはなりません。
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。Tコリント12:14〜21
あなたがどんなに小さな者であっても、あなたは大切な教会の部分です。小指の先を怪我しても、体全体が痛むではありませんか。
見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。
そんな教会を作りたいと願いながら、こころざし半ばで右往左往してきました。どうぞ、これからこの建設計画を続けてください。聖霊によって完成していただいて下さい。