メッセージ 2003・12・7 小 石 泉
永遠への走路
先日のことでした、電話が鳴り、出ると女性の声で「そちらは教会ですか?」と言いました。「はいそうです。」「そちらにはロザリオがありますか?」「いいえ、私たちはプロテスタントですからそういうものはありません。」「では、どこへ行ったら買えますか?」それから私は色々探して、あるカトリックのお店を紹介したのです。そして電話を切ったとたんに「あー、しまった。」と思いました。何と言う愚かなことか。(本当に馬鹿ですね。ぼーっとしていたのです。)どうして「ロザリオには救いはありませんよ、本当の救いはここにありますよ。」と言わなかったのか。そして最近、週報に書いた言葉を思い出しました。「神様、今日あなたを必要としている誰かを私の所に送ってください。」 あれはこの回答ではなかったのか。
数日後、家内とレストランに行きました。帰りがけに家内を待つ間、入り口の部屋のベンチに5,6人の高校生の女の子がたむろしていました。その内の一人が「どうぞ」と言って場所を空けてくれたので「やあ、ラッキーだな」と言って座りました。そしてしばらくの間、彼女たちと楽しいおしゃべりをしました。やがて家内が出てきたので「じゃあね、バイバイ」と言うとそれこそ大歓声で見送ってくれたのです。家内は「何があったの」と驚いていました。そして家に帰ってきてからまたしても「しまったー!」どうして「教会に来て見ないかい?」と言わなかったのか。心に備えがないと、せっかく神様が送ってくださってもこんな風に逃してしまうのです。苦い失敗を通して決心しました、今度は絶対に逃さない。
さて、また先日、私はギデオン協会のクリスマスパーティーに招かれ出席しました。年配の方々の色々なお話の後で、一人の16歳の少女が証しされました。全くキリスト教には興味が無かったがふと手にしたギデオンの聖書によって救われたという証しでした。淡々と気負いもてらいも無く話されたのですが、その姿を見ているうちに、なぜか彼女とシドニーオリンピックのマラソンでテープを切る高橋尚子選手がダブって見えました。そうだ彼女は天国へのマラソンを始めたのだと思いました。彼女は真理のマラソンランナーになったのです。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ピリピ3:10〜14
パウロ先生のような人でさえ、「自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ捕えようとして、追求しているのです。」と言っています。もちろん救いはもう与えられました。しかし、信仰を全うする、信仰の走路を走り抜けるのは大変なことです。本当にマラソンのように苦しいものです。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」まるでマラソンそのものです。しかし、このマラソンは42.195キロで終わりません。それは人生そのものの長さです。そしてこのマラソンの勝者の条件は“どれだけ早く走ったか”ではなく、“完走したか”なのです。途中で抜けてしまう人も時々現れます。主イエスは完走者全員に栄冠を授けてくれるでしょう。
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが人間に定まっているように、ピリピ9:27
人はみんな一度死ぬことは知っています。しかし、その後で神の前で裁かれることを知りません。どんなに栄光に満ちた立派な人生を送っても、神の前で評価されるとは限りません。クリスチャンは裁かれません。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:18
とあるからです。しかし、信じ続け、信仰の道を走り通すのは決して楽なことではないのです。そこには本当に信仰が必要です。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
ヘブル11:1(口語訳)
望んでいることを確信して、走り続けましょう。まだ見ていない事実を確認しながら。
信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。同11:27
「見えないものを見ているようにして、忍び通す。」それが信仰なのです。
あなたはいつの日か、あのシドニーの観衆の何千何万倍の聖徒たちが見守る中で信仰の走路を走りぬけて天国のゴールのテープを切るでしょう。「よくやった。よく走り抜けた。」と主イエス様があなたを表彰台に乗せ、冠を被せてくださるでしょう。それは朽ちることの無い栄冠、永遠の命の冠です。もう少し忍びながら走りましょう。もう少しです。
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