メッセージ        2003・9・ 28          小 石  泉 

人間という名の動物

 私は時々東京の町に行く機会があります。その途中で大勢の若者たちに会います。そして彼らを見ていると非常に悲しくなるのです。希望がなく、高慢で、それでいて空虚な顔つきをしているのです。私は彼らを見ていると、これは「人間という名の動物だ」と思います。事実、彼らは一貫して進化論によって教育されていますから、自分たちはアミーバから発達し、サルから進化したと思っているのです。だから私が「人間という名の動物だ」といっても決して失礼には当たらないでしょう。

なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。ローマ1:19〜25

 「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」この箇所をそのまま日本人に当てはめることは無理があるかもしれません。しかし、静かに自然や人間を見、永遠と言う時のことを考えれば、誰でも聖書の神様についてでなくとも何らかの敬虔な思いを持つのではないでしょうか。私は今のような無神論的な人々よりは、偶像でも信じる人々の方がまだましだとさえ思います。日本の場合、最大限好意的に言えば、本当の神様が分からないから偶像を拝んでいるとも言えると思うのです。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。伝道の書3:11(口語訳)

 人間がサルやチンパンジーと違うのはDNAのわずかな違いではなく、永遠を思うからです。それは神様が与えた人間の特権です。しかし、今はその場限りの楽しみだけが彼らの思いの全てとなっています。私は神様が第一に求めておられるのは自分を知って欲しいということだと思うのです。正しく清くなどということはその次に必要なことです。
 神様が人間を作られたとき、息を吹き込んだと書かれています。

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。創世記2:7(口語訳)

 この息という言葉はヘブル語でルアッハといいますがそれは霊と同じ言葉です。神が息を吹き込まれた、霊を吹き込まれた、それで人は生きたものとなったのです。この霊を聖霊と呼んでいいのかどうか私には分かりません。しかし、イエス様はこんな奇妙な行動を取っています。そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」ヨハネ20:22 それはまるで創造のときにした行為を思い出しているかのようです。
 また、エゼキエル書37章の枯れた骨のところでも肉がつき皮が覆った人間の集団に対して神様は「息に預言せよ」と言っています。そしてエゼキエルが息(ルアッハ)に預言するとそれは生きたものとなりました。

 人は神の霊を受けたとき初めて生きたものとなるのです。ですから神の霊を失っているときそれは単なる動物であり、生きていると言っているが実は死んでいるものです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、ピリピ2:6(口語訳)


 さらに使徒行伝2章では弟子たちは聖霊のバプテスマを受けました。その時から教会が始まり、その教会は「キリストの体」「キリストの花嫁」と呼ばれるようになりました。
 キリストは「神のかたち」であり、人も神のかたちに創造されました。そしてキリストは最後のアダムと呼ばれています。

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。Tコリント15:45〜48(口語訳)

 最初のアダムは「息を吹き込まれて」生きたものとなりました。神の霊を受けることによって人は生きるものとなります。最後のアダム、イエス・キリストの場合は聖霊を与えることによって永遠の命の保障を与え、「天からの人」に等しくさせるのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Uコリント5:17

 私たちは息を吹き込まれたアダムのように生きるもの、本当の人間になるだけではなく、それを飛び越えて新しく創造されたもの、最後のアダムの子孫となったのです。
 ここに確かにひとつの重大な飛躍があります。だから分かりにくいのです。ただアダムに戻るばかりではなく、もっとすばらしい新しいアダムに連なるのですから。
 私はアダムが善悪を知る木の実を取って食べたときに、吹き込まれた“息”を失ってしまったのではないかと思っています。その後、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデなどの偉大な聖徒たちはこの“息”を個人的には取り戻しています。旧約聖書の中で唯一「聖霊」という言葉が現れるのはダビデの詩篇(詩篇51:11)だけです。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

 もちろんこれは神学的に正しいことかどうか私には分かりませんが、聖書を読むときにそうとしか思えないのです。
 人間という名の動物、自らそう認めている人々に、どうしたら本当の人間、さらに新しく造られた人間になることを伝えたらいいのか。生きているとは言いながら本当は死んでいる人々に本当の命、永遠にまで続く命を教えられるのか。気持ちばかりがあせります。エゼキエルのように「息に預言する」事が出来たら良いのですが。祈りましょう。