メッセージ        2003・9・ 21     小 石  泉 

神の御業の起こるとき


 数年前にピーター・ワーグナーという学者が「2000年に日本にリバイバルが起き、1000万人が救われるだろう」と予言しました。ほかにも多くの人々が同様の予言をしましたが当たりませんでした。今またアメリカの誰かが2004年に日本にリバイバルが起こると予言しています。私は絶対に起こらないと思っていました。そしてこれからも起こらないでしょう。リバイバルには“必然”があります。今の日本にはその“必然”はありません。
 その必然とは二つの要素、霊的なものと社会的なものとがあります。霊的なものはもちろん祈りによって起こりますが、社会的要因がなければありえません。社会的なものとは人々の心が神を求めて飢え乾くこと、涙を持って悔い改めること、痛切な体験によって偶像を捨てることなどです。今の日本にはそういう雰囲気は全くありません。
 中国は今人口の10%がクリスチャンですが、それはアヘン戦争以来、絶え間なく続いた外国からの侵略、共産主義革命、文化大革命などを通して、人々はこの世のものに全く信頼を置けなくなったのです。韓国は人口の30%がクリスチャンですが、それも日本の侵略、朝鮮戦争などを通してやはり偶像に頼ることの空しさを知ったからです。
 しかし、悲しいかな日本は未だに偶像は栄え、人々は物質の豊かさに満たされています。こんな状態では絶対にキリスト教のリバイバルなどありえません。
 
 私たちはダビデが王になる経過を通してこのリバイバルの必然を学びましょう。

ダビデがキシュの子サウルのゆえに、まだツィケラグに引きこもっていたとき、ツィケラグの彼のもとに来た人々は次のとおりである。彼らは勇士たちの中で、戦いの加勢をした人々であり、歴代T12:1

ダビデはサウルに代わって王となるように神様から任命を受けましたが、それをねたんだサウルによって命を狙われ、荒野を逃げ回る日々を送っていました。このダビデの下に次々と勇敢でたくましい勇士たちが集まってきました。

また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。12:8

これらはガド族から出た軍のかしらたちで、その最も小さい者もひとりが百人に匹敵し、最も大いなる者は千人に匹敵した。12:14

彼らはダビデを助けて、あの略奪隊に当たった。みな勇士であり、将軍であった。 日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった。21〜22


勇士たちはダビデを助けるために自発的に参加してきたのです。もちろんそれは神の霊によって集められたのです。そして「神の陣営のような大陣営となった」とあります。

イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。12:32

 ここに興味深い言葉があります。「時を悟り」「何をなすべきかを知っている」。簡潔なこの言葉の中になんという真理が隠されていることでしょう。人は時を悟るとき堅実で確かな人生を歩むことが出来ます。彼らは、サウルの権力はまだ絶大なものがありましたがダビデがサウルに代わって王となることを悟っていました。彼らは神の御胸を悟っていました。そして何をなすべきかを知っていたのです。なんと頼もしい勇士たちでしょうか。そんな教会が出来ないものでしょうか。今は小さな私たちですがこのような勇士たちが続々と集うことを信じて進みましょう。とにかく告白し続けることです。告白は実現するものです。

ゼブルンから、従軍する者で、完全に武装し、戦いの備えをした者五万人。彼らは心を一つにして集まった。12:33

 「完全に武装し、戦いの備えをした」勇士たち。胸が躍ります。

誠実な心で、並び集まったこれらの戦士たちは、ヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にした。イスラエルの残りの者たちもまた、心を一つにしてダビデを王にした。12:38

「誠実な心で」「心を一つにして」これこそリバイバルの条件ではありませんか? このような人々の集まるところこそ神の家、霊の教会ではありませんか。夢でもいい、望みましょう。祈りましょう。
 このようにして始まったダビデの王国は非常に強く周りの国々を打ち破り、強大な国になりました。しかし、一旦、成功を収めたダビデは慢心し罪を犯しました。神様はダビデの子アブシャロム(アブサロム口語訳)によってダビデを王座から追い出し、彼はわずかな部下と共に再び荒野を逃げ回ることとなりました。
 この時、サウルの親戚の者だったシムイ(シメイ同)という男が現れて、ダビデの周りに付きまといのろいの言葉をかけたのです。

シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」サムエルU16:7〜12

 ダビデに従ってきた将軍の一人が、この男を殺してしまいましょうかとダビデに尋ねます。しかし、ダビデは神がそうさせているのだから、させておきなさいといいます。彼はのろいを静かに受け止めるのです。神様だけを見つめてじっと耐え忍びます。それを神様が自分に与えているのだから。
 その後、晩年にダビデは再び罪を犯します。それは国の人口を数えるという罪でした。これはちょっと分かりにくいのですが、高慢の罪なのかもしれません。神様は預言者のガドを遣わして、ダビデに三つの裁きを選ばせます。

「行って、ダビデに告げよ。『主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』」ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「七年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。」ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」サムエルU24:12〜17

 ダビデは自分にほかの人が手を下すことを恐れて神様の手によって裁かれることを求めます。しかし、その結果はなんと七万人の死者でした。指導者の罪はこのように恐るべき結果を招きます。北朝鮮の金正日を見れば分かるではありませんか。
 このような罪と裁きを経験しながらそれでもダビデへの神様の特別な選びは失われませんでした。それはダビデの徹底した神へのへりくだりの故です。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。詩篇51:17

 「砕かれた、悔いた心。」それが全ての秘訣です。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。62:1

 そしてどんな時でも静かに神を待ち望む態度です。

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。マタイ16:18

 教会はイエスさまが建てるのです。わたしが建てるといわれました。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。詩篇127:1

 わたしたちはあせったり、むやみに動き回ったりしないことにしましょう。時には良いときもあり悪いときもある。それら全ては主の御心から来ています。だからパウロ先生のように歩みましょう。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ピリピ3:12〜14

 後ろのものを忘れ、ただひたすら前に向かって進みましょう。