どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになりイザヤ48:18(口語訳)
奥多摩のある谷間に小さな沢があります。そこに全長で4・5メートルの滝があってきれいな水が落ちています。ここに入る途中に石灰岩の採掘場があるのであまり多くの人は知りません。
先日、この滝の滝壷で遊びました。身が切れそうに冷たい流れにつかっていると、どんな石鹸でもこうは清めてくれないだろうと思うほど体が清くなって行く気がします。
そして流れは毎分毎秒、全く新しいのです。それは惜しげもなく新鮮で、一瞬たりとも古いものはないのです。私を清めた流れは、次の瞬間には遠く流れ去って行きます。そして絶え間なく次の新しい流れがやってきます。何とぜいたくなことだろうと思いました。
聖霊は生ける水に例えられます。生ける水とは流れる水のことです。そうすると聖霊は常に新しく私たちにやってくるのです。今日の恵みは明日の恵みではありません。一瞬、一瞬、聖霊は新しい恵みの流れを与えて下さるのです。過去の恵みを振り返っていては新しい恵みが来ているのを覚えられないのです。このように聖霊が臨まれることを知ると上の御言葉が納得できるのです。
「あなたの平安は川のように」。私たちに与えられる神の平安はいつも川のように新鮮で古い平安を後生大事にしがみつき、守りつづける必要はないのです。
また、九十九里浜で打ち寄せる波を見ていた時、「この波はいつまで続くのだろう」と考えました。沖で白い波頭を見せた波は次々と押し寄せてきます。それはいつまでもいつまでも続きます。それは私たちが生まれるずっと前からあり、私たちが死んだ後にも続くでしょう。神様が私たちに下さる義もこのようだと言うのです。それは海の波のように、確実で、不断で、強力なのです。
私たちは神の義によって一度清められて終わりではありません。それからも何度も何度も清められ続けられなければなりません。私たちは生きる限り罪を犯すからです。しかし、感謝しましょう、神の義は海の波のようにいつまでも、いつまでも、ザブン、ザブンと私たちに押し寄せてきます。
このように神様は川でも海でも真理を語られているのです。
(1982年8月29日の週報コラムより。)
2003・9・20 小石 泉
川のように、海のように(今週の説教はお休みです)