メッセージ 2003・9・7 小 石 泉
聖書に見る男と女
最近、クリスチャンでない方の結婚式がキリスト教式で行われます。これは奇妙といえば奇妙なのですが、とにかく圧倒的に希望が多いのです。(都市部では90%)それはそうです、花嫁が“角隠し”をして、意味もわからない祝詞を唱える神主さんによる結婚式とキリスト教式ではまったく感動が違います。キリスト教が日本で唯一認められている分野といえます。考えようによってはかなり遠回りではありますが伝道の機会でもあります。
ところがこの結婚式でクレームがつくようになりました。それはまず創世記からアダムとエバの話をし「これこそ私の骨の骨、肉の肉」というと、結婚式に骨だの肉だのはちょっと・・・。エバがあばら骨から造られたというと、男から女が造られたなんて気に入らない・・・。エペソ書から「夫は自分の命より妻を愛しなさい、妻は夫を敬いなさい」というと、いまどき夫を敬えだの、従えだのは古臭い・・・。
なるほど、時代ですね。今は夫が妻を敬わなければならない時代です・・・。日本は長い間女性が虐げられ、苦しんできた歴史がありますから、今はその反動で女性が威勢がいい。しかし、聖書を読むとこれはもう圧倒的に男性優位です。多くの場合群集を言うのに「男だけで何人」といいます。女子供は数に入らない? その他、
しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。コリントT11:3
「女のかしらは男であり」。これなども今の若い女性たちには受け入れにくいことでしょう。もっとすごいのがあります。
女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。テモテ2:11〜15
「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。」「子を産むことによって救われます。」冗談じゃあないわよ。そんな声が聞こえてきそうです。
同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。Tペテロ3:7
「弱い器であって。」そうですか、最近はそうでもないですが。
教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。 もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。Tコリント14:34〜35
黙っていなさい。語ることを許されていません。これもすごいですね。女性蔑視もはなはだしいと思われるでしょう。
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。エペソ5:22〜24
夫に従いなさい。しかも全てのことで。
それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。5:33
愛されるという受身さえ今は許せないかもしれないのです。その上敬いなさいです。
妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。コロサイ3:18
同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。Tペテロ3:1
従いなさい。服従しなさい。なんと現代社会には似つかわしくない言葉でしょうか。これではクリスチャンでない方の結婚式には話せませんし、果たしてクリスチャンでも納得するでしょうか。聖書は全部が全部全ての時代にそのまま合うものでもありませんが、どうして聖書は、そしてパウロ先生はこんなに女性に対して厳しいのでしょうか。
長年の観察から言えるのですが、人生の中で男性のほうが従うとか服従するとかいう場面に出会うのが多いようです。たとえば軍隊は徹底的に服従を要求します。会社でも学校でも必ず上司がいて服従するということは必須です。しかし、一般に女性は家庭で旦那さんだけです。夫さえクリアできれば怖いものはなかったのです。これが問題です。(現代社会では女性も会社などで大いに働いていますが。)
そしてここにいう服従とは自発的服従です。決して強制的なものではないのです。自発的服従、自発的献身こそキリスト教の奥義です。それは次の御言葉で最も顕著です。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。マタイ20:28
この宗教の創設者ご自身が仕えるために来たと言われるのですから、それに従うものも仕えられるためではなく、仕えるために生きるべきです。ここには男女の違いなどありません。自発的服従は服従を征服し、気高い品性を備えさせます。私はキリスト教とはこの自発的服従、従うということを学ぶためにあるようにさえ思います。
それまでは人間は他人に服従するというのは弱い行為、卑しい地位だと思われてきたのです。奴隷は征服されたものであり、その代表者でした。しかし、教会では違います。
さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。エペソ4:1〜3
キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。5:21
「愛をもって互いに忍び合い」「互いに従いなさい」と言われては返す言葉もありません。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。ピリピ2:3
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。コロサイ3:13
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。3:16
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。ペテロ4:8〜10
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。Tヨハネ4:7〜8
ユダヤ人の男性は次のように祈るといいます。「私が異邦人に生まれてこなかったことを感謝します。また女に生まれてこなかったことを感謝します。」おやおや、あなたは女性から生まれてきたのではなかったのですか?と聞きたくなります。
しかし、イエスさまにはそういう祈りはなかったのでしょう。見てきたように、新約聖書の後半には互いにという言葉がたくさん使われています。そこには男女の差というものは全くありません。
しかし、このような思想をまだ救われていない人々にそのまま押し付けても、ただ混乱するだけでしょう。これは天国の国民にだけ求められている超高級な戒めなのですから。