メッセージ 2003・8・24 小 石 泉
時を知る者
なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。ローマ13:11(口語訳)
ここでパウロ先生は「あなたがたは時を知っているのだから」と言っています。私たちはどんな時を知っているのでしょうか。私たちは世界の始まりと終わりを知っています。神が天地を創造したとき、時間も創造されたと考えられるのです。神様には時間の制約はありません。しかし、天地を創造したときから宇宙の時計が動き始めたのです。そしてそれはあるときに終わります。しかし、仏教ではそうではありません。版画家の棟方志功は生前「宇宙には始めも終わりもないよ、未来永劫に続くよ」と言っていました。それが仏教的な考え方です。時間は永遠から永遠まで連綿と続くというのです。しかし、私たちは始めがあったように終わりもあることを知っています。神様が始められ神様が終わらせると信じています。そしてその時は近いのです。
私はどちらかというと終わりから時間を見ている人間です。ちょっとそれが普通の人より激しいかもしれませんが、別にそれだから優れているとも思っていませんし、それが欠点だとも思いません。ただ、ちょっと視線が違うというだけです。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
ヘブル9:28
私たちの主キリストは一度地上に来られました。そしてここにもはっきり書かれているようにもう一度来られます。ですからキリスト教とはまだ完了していない宗教なのです。その時、私たち人間が夢に見た本当の神の解放、救いが地球に実現すると聖書は言います。
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。イザヤ2:2〜4
世界がメシヤによって治められ、戦争が無くなるというのです。これは人間の一番求めている希望ですが、それは人間によってではなく、再び来るキリストによって実現するのです。人間がどんなに努力しても協力しても、国連でも国際条約でも会議でもなく、ただ神によって実現します。その点で私たちは人々から好まれないでしょう。
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。11:1〜9
「それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」
何と言う完全な政治でしょうか。なんと言う支配でしょうか。そこにはもう裁判の誤審はありません。わいろもおべっか使いもいません。
「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。」ある人がここを読んだとき、「ああ、これが本当の平和だ」といって神様を信じたそうです。弱肉強食がある限り、そこには本当の意味での平和はないのです。人間も肉食をやめるのでしょうか。アダムとエバのように木の実と穀物で暮らすのでしょうか。
「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」そこには神様を知る知識が海の水のように満ちているというのです。すばらしいではありませんか。
ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」 夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」21:11〜12
それは何時なのでしょうか。夜回りに聞くのです。今は何時ですか? そのように人々が私たちに聞くように願います。なぜなら私たちは「時を知っている者」だからです。
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。35:1〜2
そこには平和があり、世界は繁栄し、砂漠までが花を咲かせるとあります。神の栄光、力が表わされます。これはイスラエルに行くと一部で実現しています。
これは結末です。世の人々は結末のない映画を見ているようなものです。正義が栄え、悪が滅びる、愛は満ち溢れ、憎しみは消滅する。そのような結末を切望しながら、現実は絶望しているのです。しかし、私たちの神様は最高の結末を与えてくださいます。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。51:11
これが私たちの希望であり姿です。私たちにはこのような喜びが約束されているのです。もう悲しみと嘆きは逃げ去ります。勝利の賛美が聞こえます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。ローマ8:16〜18
何と私たちは神の相続人だというのです。どれほどの富の相続人でしょうか。想像さえできません。時がくればわかります。それは間もなくです。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。18〜27
被造物、創られたもの全てが私たちによって滅びから解放されることを切実に願っているのです。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」御霊が祈ってくださるのです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。28
そして万事を益としてくださいます。今はわからなくても。時がくれば。そして私たちは時を知っているのです。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。