メッセージ      2003・8・17      小 石  泉 

自分に死ぬこと


 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ16:24

 先週のことでした、私は不思議で不気味な夢を見たのです。私はヒマラヤのツアーに参加していました。リュックを背負って山道を登って行きました。あるところに来るとガイドさんが奇妙なことを言うのです。「この先は、焼かれて骨にならないと行けません」。私は驚いて「そんな馬鹿なことがあるものか」と抗議しました。しかし、ガイドさんは譲らず、私は怒って帰ってきてしまったのです。そこで目が覚めました。
 目が覚めてから、なんとおかしな夢だろう、何でこんな夢を見たのだろうと思いました。当然、数日前に召された小泉君の葬儀の印象が残っていたのでしょう。しかし、考えている内に上の御言葉を思い出したのです。「自分を捨て、自分の十字架を負って」とは死ぬことを意味しています。十字架のペンダントは多くの人が胸にぶら下げていますが、もともと十字架はぶら下げるものではなく、自分がぶら下がるものです。
 自分を捨て、自分に死ぬことはなんと難しいことでしょうか。私たちは自分がどうしようもない罪人であることを認めても、自己主張をし、怒り、不平を言い、自分のために良いことを第一に求めます。イエス様に従うと言いながら、いつの間にか自分の考えが優先しています。十字架を背負っているはずなのに、わき見をしたり、道草を食ったり、時には十字架を投げ出しています。しかし、夢では何と、骨になれと言うのです。骨になったら、さすがに自分を捨てることは出来るでしょうね。
 昔、日本の特攻隊の若い青年たちは、片道だけの燃料と爆弾を積んで飛び立ち、敵艦に突入して行きました。「天皇陛下万歳」と叫びながら。天皇は神であり、神のために命を捨てるのは惜しくないと教えられて……。しかし、その天皇は戦後、自分は神ではないと宣言したのです。なんと言う無駄な死だったことか。
 しかし、考えてみてください。私たちの命はもともと自分で作り出したものではありません。両親からいただいたものです。そしてその両親も、その両親から、その両親も、……結局、神様からいただいたものです。それなのにまるで自分が作り出して自分の固有の権利のように思っています。なんとあつかましい。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。ヨハネ12:24〜25

 私たちがもし、自分に死にきることが出来るなら、もし、自分を無にして仕えることが出来るなら、自分の権利や自己主張や欲望を捨て切ることが出来るなら、確かに多くの実を結ぶことが出来るに違いありません。死ななければ出来ないこともあるんですね。不思議ですね。少しでも自分が生きていると駄目なんですね。
 祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。レビ13:13
 これは口語訳聖書ですが、旧約聖書でもらい病が全身を覆っていたらその人は清いものとされました。ほんのちょっとでも生肉があったらその人は穢れているのですが、一ヶ所も健康な皮膚がなければ逆に清いとされたのです。不思議といえば不思議ですがなんと言う慰めでしょうか。私たちがもし自分に頼るところがあるならその間は神の前に役に立たず、まったく頼むところがないと思うとき役に立つものとなれるのです。まさに「無きに等しいものをあえて選ばれた」とあるとおりです。

 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。エゼキエル37:1〜10

 骨のように無力なものでも、神の前ではそうではありません。神は干からびた骨からでさえ人を、それも非常に多くの集団を“生き返らす”ことが出来るのです。もちろんこれは比喩です。この骨はイスラエル民族を表しているのです。しかし、骨に、筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおったとあります。不思議な光景です。
 私たちが無力だとしても、神にあっては不可能はありません。私たちはどんな者でも、どんな時でも希望があります。そのためにはまず神のご命令に従い“預言”するのです。
「干からびた骨よ。主のことばを聞け。」私たちの周りの救われていない人々は霊的に死んでいます。霊的に干からびた骨です。神の言葉を聞きなさい。そうすれば生きます。
 しかし、それだけでは十分ではありませんでした。それは肉体だけの復活でした。息にも預言しなければなりません。息とはいつも言うようにヘブル語では霊と同じ言葉ルアッハです。聖霊によって人は単なる肉の命だけではなく霊の命を受け取るのです。
 私たち自身のことを考えてみても時々骨のように命がなく、疲れ果てていませんか。まず御言葉によって生き返りましょう、そして“息”によって力を得ましょう。
 私が見た夢では焼かれた骨にならなければそれ以上前に進むことは出来ませんでした。私はそれを拒否しました。私の権利のように、命を差し出すことは出来ませんでした。

 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。マタイ16:25

 主のために、命を失うことが出来ますか?自分を骨にまでして従うことが出来ますか?
そうするなら本当の命を見出すでしょう。一度、思い切って主イエス様にあなたを差し出すことです。