メッセージ       2003・8・10      小 石  泉 

誰を遣わそうか、誰が行くだろうか


主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。
あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。
朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。
まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。
まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。詩篇90:1〜:17


これはモーセの詩です。「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』」おごそかな気持ちになります。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」とありますが、私たちの愛する小泉兄弟はその半ばで天に召されました。私たちは「なぜですか?なぜですか?」と神様に問いかけるしかありません。どう考えても、納得がいかないのです。しかし、神様にはご自身のご計画があるのでしょう。「帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。」いつの日にか、このように恵みを喜ぶことが出来ると信じるほかにはありません。

 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。申命記34:5〜9

モーセが死んだとき、イスラエルの民は30日間喪に服しました。泣き悲しんだとあります。私たちは永遠の命を持ち、天国に住みますが、残されたものにはやはり別離の悲しみがあって当然です。私たちも今は悲しみがあります。
 しかし、ある時、私たちはその悲しみから出発しなければなりません。いつまでも悲しみ、嘆いていることは出来ないのです。いつか新しい歩みを始めなければなりません。モーセのように偉大な人物を亡くしたら、その痛手はなかなか癒されるものではありません。兄弟のご家族の悲しみ、痛手は、同じことでしょう。しかし、それでもいつかは新しい一歩をはじめなければならないのです。「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。」とあります。神様は残された方々にも知恵の霊を満たしてくださるでしょう。兄弟も天にあってご家族のことを第一に気遣っていることでしょう。

 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。イザヤ6:1〜:8

 ウジヤ王は歴代の王の中では、神に忠実な名君の一人でした。残念ながら晩年に、高慢になり祭司しかしてはならない香をたいて神の怒りを受け、らい病になって死にましたが、それ以外ではすばらしい王だったのです。
 イザヤは王の血統に属する貴族階級の人だったようです。彼は王の死の後、失望と虚脱感の中で神殿に入りました。するとそこに神が御姿を現されたのです。この場合、神とは人間の姿をとる前の神の子イエス・キリストです。神の栄光の全てをあらわすお方です。
 それがどんなに恐るべきことか私には少しだけ分かります。神学生のとき、祈りの中で、ほんのちょっとだけ神様が近づいてこられたように感じました。私は悲鳴を上げて「神様、それ以上近づかないで下さい」と叫びました。なんと表現していいのか分かりませんが、威厳、清さ、正しさ、圧倒される存在感、それは到底、肉の人間には耐えられるものではありません。私の場合はほんの数万分の一ミリ、数兆分の一ミリだけ神様が近づいてこられたように感じただけですが、イザヤは神の御姿であるイエス様を見てしまったのです! 彼はあわてふためき恐れおののきました。当然です。
 御座の周りにはセラピムが舞いかけていました。セラピムは神の御そば近く仕える天使です。
二枚の羽で顔を、他の二枚で足を覆っていたのは、神の前でのへりくだりを現します。セラピムほどの天使ですら、神の前では恐れて顔と体を隠すのです。
 イザヤは自分の罪深い肉の性質を恐れました。セラピムは唇に焼けた炭をつけてイザヤの罪を清めました。私たちの罪はどうやら唇から来るようです。
 罪が清められたイザヤは神の言葉を聞きます。それは「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」というものでした。ウジヤ王の使命を誰が継ぐのか。イスラエルに神の言葉を取り次ぐのに、誰を遣わそうか。その時イザヤは言いました、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。なんと雄雄しい応答でしょうか。
 小泉兄弟が召されたとき、霊的な空間が生じました。家庭に、教会に、職場に、地域社会に。神の証人としての使命が欠けたのです。誰が遣わされるのでしょうか。誰が行くのでしょうか。私たちは全て、その地域社会に対するイザヤです。なぜなら誰もあなたのいるところには神の僕はいないのです。
 小泉兄弟の死を通して、もう一度私たちの使命を考えましょう。何も出来ないかもしれない。でも、あなた自身を通してキリストを表すことは出来ます。そして言いましょう。
 「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。