メッセージ 2003・8・3 小 石 泉
夏の夜空の啓示
やっと夏らしい暑さがやってきました。夏は自然に親しむ機会がありますが、もし、どこかの山に行かれたら、夜、ぜひ宿舎から出て夜空を仰いでください。特に最近の若い人は美しい星空を見たことがないと思うのです。私はいつも言っているのですが、私たちの子供のころには庭先から天の川がはっきり見えたものです。今の子供たちは天の川のあることさえ知らないのではないでしょうか。これは大きな問題です。
さて、今年、人類始まって以来という天体の動きがあります。それは火星の大接近です。火星が通常の三分の一ほども近づくのです。通常は8000万キロほどのところにあるのが、この時期、5500万キロほどに近づきます。天体間の引力などの関係は私には分かりませんが、火星は特殊な星なのです。元、星占い師でイエス様によって救われたデイヴィッド・メイヤー氏によればイラク戦争は火星の動きによって始められ、終わったそうです。アメリカ政府はかなり前から星占いによって動かされています。クリントン、ブッシュ大統領共にそうです。古代ギリシャ・ローマでは火星はマルスと言い、戦争の神としてあがめられていました。その火星が人類の歴史始まって以来、最も近づくというのですから、星占いで動かされる人々によって、何かが起こる、いや、何かを起こすことが考えられます。もちろん何も起こらなければ幸いですが。
さて、それはともかく、地球は太陽系の中の小さな星です。その太陽系は銀河系星団の中の小さなサークルです。その銀河系に匹敵する星団が、この宇宙には何億、何兆とあるというのです。なんというスケールでしょうか。
ところが創世記によれば、神様は宇宙を作ってすぐに、その最大の関心を地球に置かれました。この惑星の上にエデンの園を作り、そこに創られた人間を置かれました。宇宙の数え切れない大きな星々ではなく、銀河系のちりのような地球に、神は来られ、人間を創り、サタンもやってきて罪が生まれ、神とサタンと人間、三つ巴のすさまじいドラマが始まりました。やがて、人間を救うため神の子がこの惑星に来られました。宇宙を創られた方がこの小さな惑星に来られたのです。そして何と、十字架にかけられ、死ぬという経験をされました。そして新しい人間、神の子の命によって贖われた聖なる民クリスチャンが生まれました。
さらに間もなく、この地球で神とサタンの最終戦争が始まります。サタンはイエス・キリストの御口の息で滅ぼされます。それは分かるのですが、何でこの地球なのでしょうか?なぜもっと広大な宇宙でそのような壮大な戦いは行われないのでしょうか?
第一、どうして神様は「人間」になられたのでしょう。人間は「神の形」に創られたからですが、それにしても全てがこの地球という小さな星の上でなされるのは不思議です。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。ピリピ2:6〜11(新改訳)
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。同(口語訳)
神の子は、神でした。しかし、罪に苦しむ人間を救うために人間になりました。人間の中でも王や将軍ではなく、最も低い僕の形をとられました。実際、十字架につく前には腰の手ぬぐいで弟子たちの足を洗ったのです。それは奴隷の仕事でした。そればかりか自分は何も罪を犯さなかったのに、人間の罪の身代わりとして、犯罪者となり死刑になりました。神の子の御性質はひとえに謙遜でした。
キリストに似るということが、なにか大きなこと、奇跡を行うこと、力を誇示することに傾きがちな近頃のキリスト教は変だと思いませんか。どのくらいキリストに似るかということはどのくらい謙遜であるかということが最大の基準ではないのですか。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ピリピ3:4〜14
パウロ先生はイスラエルのエリートでした。彼は名門ベニヤミン出身、生まれて8日目に割礼を受け、律法を学び、有名なラビであったガマリエルの門下生でした。宗教的な支配階級パリサイ派に属し将来を嘱望されていた人物でした。しかし、彼は熱心にキリスト教を迫害する過程で主イエスに出会い、変えられて、使徒の一人となりました。その結果、当然、彼の持っていた全ての地位、名誉を剥奪されました。
しかし、彼はキリストを知ったことはそんな地上の名誉や地位に比較すれば何の価値もないというのです。むしろ損だった、ちりあくただったとさえいうのです。持ったことのない人間が言ってもそれは負け惜しみでしょうが、十分に持っていた人、パウロ先生が言う言葉には重みがあります。
ところで、私たちは、もし与えられるなら、地上の地位、名誉などをあえて拒む必要はありません。それらを通してより豊かなキリストを伝えるチャンスがあるかもしれないのです。昔、私の父の時代の日本のクリスチャンはそういう考えは持っていませんでした。無名になり清貧に甘んじるのがクリスチャンだというような考えでした。それは逆に自己満足であり、やせ我慢としか見られません。過去に欧米では有力な地位にあるクリスチャンたちが、すばらしい証をしています。しかし、そのような地位、名誉についていても、それを神の前では無価値であり、ただキリストを伝ええるための道具だと思うならすばらしいことです。
さて、パウロ先生は奇妙なことを言っています。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
おや? 私たちは救われたのではないのですか? もう、キリストの十字架によって全てのものをいただく約束を得たのではないのですか?
ここでパウロ先生が言っているのは、クリスチャンとしての謙遜な生き方、態度を言っているのです。救いにあぐらをかいて、傲慢になったり、怠慢にならないように自分を戒めている、と言っているのです。パウロ先生にして「自分はすでに捕えたなどと考えてはいない」というなら誰が思い上がることが出来るでしょう。救いはすでにあります。しかし、私たちはいつも謙虚に、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進もうと言っているのです。
いつも神に向かって真実であること、それが一番大切なのです。イエス様の評価の中のタラントの教えのように、いかに忠実であるか有能であるかというのがあります。また、いかに清いか正しいかというのもあります。一方で何もなくても、いかに真実であるかというのもあるはずです。ダビデはその点で神に愛された人でした。
神に対して謙虚であり、真実であればそれで良いではありませんか。夏の夜空を見ながらそんなことを考えてみてください。