2003・7・27 小石 泉
陶器師と粘土
主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行ないとわざとを改めよ。』エレミヤ18:1〜11
イエス様もそうでしたが神様は時々とても分かりやすい視覚教育をなさいます。ここは説明を必要としないところですが、神様はエレミヤに陶器師のところに行ってその仕事を見なさいと言われました。陶器師は粘土で器を作っていましたが、それが思うようにならないので、また元の粘土の塊に戻して、新しい器に作り変えたのです。そのようにイスラエルが神様の御心の通りにならないので、神様は元のように、何も無かったときのように戻して、はじめからやり直すといわれたのです。
私たちも神様の御心を行えないとき、神様は私たちを壊して、はじめからやり直させるのです。時々、行き詰ったり、思い悩んだり、何もかも上手く行かなくて失望することはありませんか。どうして何もかも駄目になってしまうのだろう。何で全てが上手くいかないのだろう。そんな時、神様はあなたをもう一度、はじめの状態に戻して、やり直しているのです。この器に向かないなら別の器にすることもあるのです。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ15:16
これはイエス様が12弟子を選ばれたときのことですが、同時にクリスチャン全てのための言葉です。私たちがキリストを選んだのではなく、キリストが私たちを選んだのです。でも、ちょっと不思議ですね。私たちは信仰によって神様を知ったのです。それなのに選ばれていたというのです。それは次の言葉でも証明されます。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。エペソ1:4〜6
世界の基の置かれる前から選ばれていたというのです! 何と不思議な。
しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。Tテサロニケ2:13
初めから救いに選ばれていた! どうして? これは私たちには分かりません。しかし、神様には見えているのです。私たちの、生まれてから死ぬまでが。
私はいつも次のように説明します。私たちは“信じます”という名の扉を開いて信仰の世界に入りました。ところが振り向いてみると、その扉の内側には“選ばれていた”と書かれていたのです。もし、内側に、やはり“信じます”と書かれていたら、“やめます”とか“もう信じません”と出て行くことも出来たでしょう。私たちの信仰なんて、そんなものです。人生の苦労や困難に出会ったとき、「何でこんな目にあうんだろう、神様なんて居るものか。」と信仰を捨てることもあるかもしれません。他の人は知りませんが、私に関する限り、自分の信仰なんて弱く頼りないものです。しかし、神様が選んでいて下さったなら、何と力強いことでしょう。私の心細い決断、持続力のなさ、そんなものではなく、永遠の昔から私を選んでいてくださったのです。私の信仰は、神様の力強い意志の裏づけによって守られていたのです。
神の賜物と召しとは、変えられることがない。ローマ11:29
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。ヘブル1:17
神様には「移り変わり」はありません。私たちのように、一度選んだものを、途中で「やめた」ということはないのです。その代わりに、作り変えるのです。粘土を練り直すように、やり直します。ですから時にはクリスチャンのほうが一般の人よりも苦しみが多く見えることもあるのです。それは神様のあきらめない努力のためです。あなたをどうしても神様の求められる器、望むレベルまで作らなければならないからです。
さあ、あなたを神様にゆだねましょう。そして神様を見上げて進みましょう。
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