メッセージ       2003・7・13      小 石  泉 

本当に勇気ある人々


 今日は聖書の中の本当に勇気のある人々について学びましょう。

時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。頭には青銅のかぶとを頂き、身には、うろことじのよろいを着ていた。そのよろいは青銅で重さ五千シケル。また足には青銅のすね当を着け、肩には青銅の投げやりを背負っていた。手に持っているやりの柄は、機の巻棒のようであり、やりの穂の鉄は六百シケルであった。彼の前には、盾を執る者が進んだ。ゴリアテは立ってイスラエルの戦列に向かって叫んだ、「なにゆえ戦列をつくって出てきたのか。わたしはペリシテびと、おまえたちはサウルの家来ではないか。おまえたちから、ひとりを選んで、わたしのところへ下ってこさせよ。もしその人が戦ってわたしを殺すことができたら、われわれはおまえたちの家来となる。しかしわたしが勝ってその人を殺したら、おまえたちは、われわれの家来になって仕えなければならない」。またこのペリシテびとは言った、「わたしは、きょうイスラエルの戦列にいどむ。ひとりを出して、わたしと戦わせよ」。サウルとイスラエルのすべての人は、ペリシテびとのこの言葉を聞いて驚き、ひじょうに恐れた。Tサムエル17:4〜11

 これは有名な話ですが、今日は改めてこのゴリアテのことを考えてみましょう。ゴリアテの背丈は6キュビト半。1キュビトは約45センチですから約2メートル90センチです。ジャイアント馬場さんはどれくらいあるのか知りませんが、おそらくはるかに高かったでしょう。このゴリアテはネピリムと考えられています。ネピリム(ネフィリム)とは巨人のことです。それは創世記に出てきます。

さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。創世記6:1〜4

 ここは聖書でもっとも難解なところと言われています。この神の子とは誰のことかです。ある人々は、これは神に不従順だったハムの子孫、人の娘というのは忠実なセツの家系だといいます。しかし、それではなぜ巨人が生まれてきたのかという説明ができません。
ヨブ記には同じ言葉が現れます。

ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。1:6

 これはどう考えても天使たちのことです。その中には堕落した天使長ルシファーの成れの果てサタンもいたと書かれています。ここも不思議な箇所です。
 では創世記の記事は天使それも神に反逆した堕落天使(悪霊)を神の子と言っているのでしょうか。しかし、イエス様は天使には性別はないと言っています。

復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。マタイ22:30

 ところであるオカルトの世界にいてキリストによって、その世界から救われた人によると、堕落天使(悪霊)は地上に来ると男にも女にもなれるそうです。
 本当かどうかはともかくとして、このネピリムはもしかするとただ大きい人間というのではなく人間以外のものとの混血児かもしれないのです・・・?? とても信じられないことですが聖書をそのまま読む限りそうなります。それにもかかわらずダビデはこう言っています。(残念ながら新改訳があまりにも変なので新共同訳を使います。)

ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」17:26(新共同訳)

 そしてダビデはゴリアテを倒します。
彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。

このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。17:42〜51(新共同訳)

 ネピリムを相手にしたと考えるとき、改めてダビデの勇気と信仰の偉大さを思います。もう一つのケースを見ましょう。それはモーセに率いられてエジプトを脱出し約束の地
カナンの入り口に来たときのことです。モーセは12人のスパイを送りその地を調べさせ
ました。そして帰ってきた彼らは次のように報告したのです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。民数記13:28・・・・・・「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」13:32〜33

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。14:1

すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」14:6〜:9

 12人の内、ヨシュアとカレブだけが信仰によって勝利を確信しましたが、ほかの10人は恐れました。彼らはそこにネピリムがいたと言っています。アナク人とはネピリムの別名のようです。あの得体の知れない巨人がいたのです。彼らが恐れるのも無理のないことです。しかし、ヨシュアとカレブはネピリムを恐れませんでした。
 さあ、私たちの周りを見渡して見ましょう。日本には目に見えるネピリムはいません。しかし、霊のネピリム、それこそ悪霊そのものの働きが活発です。彼らにとって私たちはイナゴのように見えることでしょう。
 私たちはダビデのように言えるでしょうか。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう・・・今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
 ありとあらゆる宗教が充満しています。ある団体は巨大で政治をも動かしています。あるものは怪しい霊で人々を惑わしています。あるものは聖書の宗教をかたり、大きな働きをしています。しかし、私たちはヨシュアとカレブのように「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と言えるでしょうか。
 今こそダビデやヨシュアやカレブのように勇気を持ちましょう。ダビデは言いました、
「この戦いは主のものだ。」あなたはイナゴのようであっても、主は勝利を与えられるでしょう。たとえネピリムであっても勝利できます。



*今回、部分的に新共同訳聖書を使いましたが、新共同訳は神学的に問題がある翻訳です。しかし、日本語としての成熟度は抜群で、一番読みやすいでしょう。新改訳聖書は日本語になっていないと思う箇所がたくさんあって困った訳です。しかし、下手は下手なりに新鮮な訳があって驚かされます。結局、完全な訳というものはないのです。