メッセージ       2003・7・6    小 石  泉 

いつも喜んでいなさい


 私たちは時として思いがけない悲しみや困難や苦悩に出くわします。そういう時、ああ、どうしてこんなことが私に起こってしまったのだろう。どうすればいいのだろう、と途方にくれます。それが悲痛であればあるほど、困難であればあるほど、苦しみであればあるほど、動揺し、信仰もゆらぎます。世の人なら、神をのろい、人を恨み、それが他人からもたらされたものなら憎しみがわきます。いわゆるはらわたが煮えくり返り、食事ものどを通らず、体の神経は消耗してぴりぴりと痛むでしょう。また、それが自分の失敗なら、絶望し、自己嫌悪に陥り、真っ暗な穴の中に投げ込まれたように感じるでしょう。そんな時、聖書の御言葉を開くと、次のように書かれているのを発見します。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Tテサロニケ5:16〜18


 ええ! どうして喜べますか! どうして感謝できますか! そんなの無理です! とあなたは叫ぶでしょう。しかし、御言葉は喜べるときに喜べ、うれしいときに感謝せよとは言っていません、「いつも」であり「すべての事」とあります。そんな無茶な!
 ここで二つの方向からこの御言葉の真実をお話しましょう。

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマ8:31〜39

 私たちは神に選ばれたものです。何かが優れていたというわけではなく、取るに足りないものを選ばれたのです。主は私たちのために十字架で死なれ、今、天において神の右に座して執り成しておられます。私たちをキリストの愛から引き離すことは、患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も出来ません。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
 ちょっと自己満足でおかしいと笑われるかもしれませんが、私たちはこのように特別な存在なのです。神に愛されている選ばれた民です。聖書によるならばそうです。ですから私たちはむやみやたらに苦しみに会うことはありません。いささか言いにくいことですが、私たちは世間一般の人とは違うのです。ですからクリスチャンがひどい事故や災害や犯罪に出会うことはまれです。多くの場合その前に知らされるとか、いつの間にか避けられたという話を良く耳にします。クリスチャンの子供が拉致された、通り魔にあったという話もあまり聞きません。横田めぐみさんの場合、お母さんはめぐみさんが拉致された後でクリスチャンになっています。このことについてはサタンが証言しています。

あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。ヨブ記1:10

 ヨブの周りに神様は垣を巡らしているとサタンは文句を言っています。イエス様は旧約聖書の聖徒たちよりもクリスチャンは祝福されていると言っておられます。私たちの周りにも神様は垣を設け、危険や困難や事故から守っていてくださるのです。

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。エレミヤ29:11(口語訳)

 神様の御心は常に私たちに災いではなく、平安と将来と希望を与えようとするものです。

神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。U列王記6:15〜17

 エリシャ一人を捕らえようとシリヤの王様は大軍を遣わして、エリシャの住む町を包囲しました。エリシャの従者は朝起きてそれを見たとき恐れおののきました。それは当然でしょう。軍馬はいななき、槍や刀がきらめき、鎧や盾は音を響かせていたのですから。
 しかし、エリシャが神様に祈って従者の目を開かせると天使の大軍がシリヤの軍を取り囲んでいたのです。このような守りは本当のクリスチャンにもあるのです。私たちも天使の軍団が守っています。

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。黙示録19:7

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。Tコリント12:27


 私たちはキリストの花嫁であり、体です。花婿は花嫁を苦しめようとはしません。人は自分の体をむやみに壊そうとはしません。神様とキリストは私たちを大切に、大切に、思っておられるのです。
 さて、それにもかかわらず、時として私たちに困難や苦悩が訪れることがあります。それはなぜでしょうか。そこには二つの目的があります。一つは私たちの信仰に何か重大な欠陥があって、それを悟らせようとするためであり、もう一つは私たちをもっと良きものに成長させるためです。
 時としてクリスチャンという人々の中にちょっと勘違いしているんじゃあないかと思う方々に会う事があります。そういう場合、大きな試練に会って急速な進歩をとげるということがあります。また、私たちが苦しみも痛みも知らなければ逆に平安も喜びもわからないでしょう。そのために時には神様は最善のクリスチャンにも困難や苦悩を与えます。
しかし、それは限定的なもので一般の人々の受けるものとは格段の違いがあるものです。
 さて、こうして私たちは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」という御言葉を実践できるようになるのです。
 それでもあなたは言うでしょう「そんなこと言ったって、苦しみの中で喜ぶことなんて出来ません。感謝なんて出来ません。」と。
 もう一度御言葉を見てください。喜べるときに喜べ、感謝できるときに感謝せよ、とは言っていません。「いつも喜べ」であり「すべての事を感謝せよ」です。そんな無茶な!
 この御言葉は経験してみないと判りません。到底感謝できない悲しみや苦しみの中でも、クリスチャンはその苦しみが神様から来たこと、あるいはそのような悲しみや失敗も神様が許された範囲であることを感謝するのです。何か神様には目的があるのです。あなたを清め、完成させるために、あるいはもっと悲惨な事件に会わせないために、神様はお許しになったのです。
 そこであなたは、まず、叫ぶのです。「神様感謝します!」でも平安はやってきませんでしたか? では、もう一度叫びましょう。「神様感謝します!」まだ、やってきませんか?
では、もう一度、二度、三度……百度、千度、万度。あなたの全身を「感謝します」という言葉で満たしなさい。苦しみや悲しみが波のように押し寄せても、その度に叫びなさい。

そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。ピリピ4:7(口語訳)


 普通、人は自分に不都合なことが起こったとき、そしてそれが他人からもたらされたとき、その人を恨んだり憎んだりするものです。しかし、あなたが感謝を持って勝利するとき、あなたは驚くべき神の平安と、高い人格の一部を所有します。あなたは神様の期末試験に合格したのです。あなたはもう一歩キリストの御性質に近づいたのです。
 もし、どうしても感謝できなかったらこの御言葉を感謝しなさい。「神様、私は感謝できませんが、この御言葉を感謝します。」苦しみや悲しみに打ちひしがれるとき、その自分を御言葉でカーテンのように覆いなさい。あなたはいつの間にか平安と感謝を経験するでしょう。そうです、それが、「
キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること」なのです。