メッセージ 2003・6・29 小 石 泉
起きよ、光を放て
昨日、船橋の駅前でエホバの証人の人々が立って伝道をしていました。今、日本でキリスト教を名乗る宗教の内で彼らは最大の勢力となりました。その他にもオームやパナウエーブなどなど数え切れないカルト集団が日本に蔓延しています。彼らは悪霊の力でそれらの迷いの道を熱心に伝えて多くの人を惑わしているのです。かつて自分自身がオカルテイストであり占い師だったが、今はキリストによって救われ雄々しい戦いをしているデイヴィッド・メイヤーさんはそのことを“サタンの裏側からの光”と呼んでいます。
さて、私たちはこれでいいのでしょうか。
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。イザヤ60:1〜3
私たちは聖霊の宮です。それならば主の栄光、シェカイナの光が私たちの上に輝いているはずです。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。マタイ5:13〜16
私たちこそ地の塩、世の光として神様に期待されているのです。塩として有益なものとなり、この世にあって光として輝くことを望まねばなりません。それはちょっと難しいですと言われますか。難しいことではありません。私たちは自分の力で塩になることは出来ないのです。塩は化学記号でNaClですが、NaClという化学合成をなさるのは神なる主です。問題は塩が自分を塩でないと思っていることなのです。あるいは無理して塩になろうとしているのです。もうすでにあなたは塩なのです。塩は塩のままで良いのです。あなた方は地の塩であるとイエス様は確認されたのです。
また光は光であればいいのです。どんなにがんばっても私たちが自分で光を作り出すことなど出来ません。光は粒子の振動や波動によって生まれますが、私たちの力では光を作り出すことは出来ません。それはすでに与えられている神の栄光の光なのです。それをそのまま表すことなのです。覆い隠さないで。素直な気持ちで。あなたの周りを明るく照らしましょう。塩で味付けましょう。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。イザヤ41:10〜14
虫けらのヤコブ。前の口語訳では「虫に等しいヤコブ」でした。どちらにせよ私たちにふさわしい表現ではありませんか。しかし、こんな私たちに神様は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」と言われます。
ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。55:1〜3
現代人は、本当は霊的に飢え乾いています。2700年も前のイザヤの預言は今こそ真実です。彼らは「食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労」しています。サタンは偽りの霊の食物で人々を騙しています。高いお金を払って、魂の糧にならない贋物を食べさせられているのです。神様は「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」と言っておられるのに。そして「わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」と、こんなにもねんごろに呼びかけておられるのです。
まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。51:3〜5
このように神様はイスラエルの民に呼びかけられます。しかし、心の荒廃した異邦人も神様のところに来れば、その心はエデンのように、主の園のように変えられるのです。
クリスチャンとはそういう人々のことです。ですからクリスチャンが自分の必要や、苦しみや、悩みのために傷つき、癒しを求め続けるのは、本来はおかしいのです。すでに問題は解決済みです。神様が求めておられるのは私たちが人々の助けとなり、地の塩、世の光となることです。それなのに私たちがいつまでも弱く、欠乏し、痛み、傷つき、助けを求め続けるとしたら、何かがおかしいのです。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ6:38
秘訣は「与える」ことです。「受けること」をやめて今の自分の出来る範囲、レベルで人々に与えることです。何を? 神を知る喜びを、神に知られている喜びを。
起きよ、光を放て。本当に真剣に考えなければなりません。もっと、もっと輝くように。もっと、もっと与えることが出来るように。何かが出来ないだろうか。何かを与えられないだろうか。
幕張シオン教会の西脇先生は最近の新聞テレビに現れる子供たちの危機的な状況を見て、自分にも何かが出来ないだろうかと考えました。それから毎日、近くの小中学校の門の前に立ち、「おはよう」と子供たちに声を掛けるようになりました。はじめは「変なおじさん」でした。しかし、毎日、毎日続けているうちに子供たちも「おはようございます」と声を掛けるようになりました。やがてそれは学校や父兄の話題になり、PTAや子供の問題を話し合う会などいろいろなところに招かれるようになりました。今ではあの底抜けの優しい笑顔で「おはようおじさん」として地域社会に認められています。
私たちにはちょっと出来ない芸当ですが、別の形で何かが出来ないだろうか。何とかして起きて、光を放つことができないだろうか。受ける者ではなく、与える者になれないだろうか。この暗い世界に、イエス様のように人々に仕えるものとはなれないだろうか。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
マタイ20:28
エホバの証人の別名「ものみの塔」について。
オカルトの世界にいて、救われた人々の証言によれば、堕落天使、悪霊は地上に来たとき、(彼らは霊界と地上を行き来しているということです)いろいろな姿かたちを取るそうです。その中に数十、数百メートル、時には数キロメートルという背丈の者もあると言います。そういう者をオカルトの世界ではWatchtowerと呼ぶそうです。エホバの証人を創設したC・T・ラッセルはそこから「ものみの塔」と言う名前をつけたのだと考えられます。ラッセルはフリーメーソンであり、オカルトの世界に詳しかったのです。(フリッツ・スプリングマイヤーによる)