メッセージ    2003・6・22    小 石  泉 

山上の垂訓の謎


 マタイの福音書5章に始まり7章に終わる山上の垂訓はすばらしい恵みと威厳に満ちた御言葉です。多くの聖書解釈者や先生たちはここを「救われた者の新しい律法」「神の国の律法」と教えます。しかし、読み始めてすぐにすっかり失望してしまうのです。その一部には十戒をはるかに超える厳しい戒めが書かれているからです。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。5:20〜22

『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。5:27〜30


 これでは私たちはみんな監獄に入れられ、両目、両腕なしの不具者にならなければなりません。私たちはこの御言葉の美しさを喜びながら、悲しい思いで読み進まなければなりません。長い間、私もこの箇所は謎でした。イエス様はどうしてこんな厳しい戒めを語られたのだろう。これでは救われるどころか地獄への直行便を提供するようなものだ。
ところが、私が今聞いているテープのメッセンジャーはこの箇所の謎を見事に解き明かしてくれました。それにはユダヤ人と律法の関係を理解しなければなりません。
 モーセによってエジプトを脱出し約束の地カナンに入ったイスラエル人は、その後約1000年間その地に国を作っていましたが、BC722年に北朝イスラエルがBC587には南朝ユダがそれぞれアッシリヤとバビロンに滅ぼされ、国の有力者が捕囚となって連れて行かれました。その後、BC457年にエズラを中心とする人々が帰ってきて国を再建したのです。この時、エズラたちは、自分たちがせっかく神の約束の地に入ったのに、こうして国を失うようになったのは神の律法(トーラー)に従わなかったからだという深い反省から、律法を解説し教える人々を選んで任命しました。その人々のことをソフィリームと呼びました。この人々が解釈した教えをまとめたものをミシュナと呼びます。しかし、その後これらの人々の後継者がさらに解釈を拡大し続けました。この解釈集をゲマラーと呼びます。このミシュナとゲマラーをあわせてタルムードと呼びます。そしてこれらの解説者を書記と呼びましたがそれが新約聖書で律法学者と呼ばれている人々です。この人々はその後、パリサイ派とも呼ばれるようになりました。なお、ミシュナとゲマラーは口伝で伝えられました。成文化されたのはAD220年だということです。ですからイエス様の時代には口伝でした。それでイエス様の言葉には「書かれている」と「言われている」という二つの言い回しがあるのです。ところでトーラーは十戒に始まり、申命記に至るまでに613の律法があります。しかし、ミシュナは1500ページ、ゲマラーに至って百科事典20巻もあるそうです。これらはいつの間にかトーラーと等しいか、時にはトーラー以上の権威を持つようになりました。その戒めは微に入り細にわたり、ユダヤ人をがんじがらめに縛り付ける恐るべき罠となりました。何しろ、安息日の戒めだけで1500にも及んでいると言います。本来、律法は神様が人間に与えた救いの戒めだったはずですが、それが拷問に等しい苦痛の戒めとなったのです。
 イエス様はここで律法の正しい解釈、律法の制定者としての本来的な意味を教えられたのです。律法を外面的に捕らえ、外側だけを飾る、白く塗られた墓のような教えに対して、うわべだけではなく、動機も重要なのだと言うことを言われたのです。ですから、山上の垂訓は一面では律法の正しい解釈を当時のイスラエルの人々に示したものであって、十字架の贖いによる福音ではないのです。しかし、すばらしい恵に満ちたものであることも事実です。使徒行伝でペテロ先生は律法とイスラエルについてこう言っています。

 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。15:8〜11

 「私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびき」それが律法でした。律法は良いものです。しかし、それはあまりにも気高くて、人は誰一人守ることは出来なかったのです。エベレストは人間に征服できても、律法を完全に守ることは出来ませんでした。パウロ先生はローマ書の全体でこのことを論じていますが、特にこう言っています。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。ローマ3:20〜22

 パウロ先生は律法によって人は罪の基準を与えられるのだが、それを行うことは不可能だと言っています。一つの律法を守ったとしても別の律法を守れません。人は律法の行いによってではなくアブラハムのように信仰によってだけ義とされるのだというのが「パウロの神学」です。しかし、これは当時の律法学者、パリサイ人には許しがたい解釈でした。

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。3:28〜31

パリサイ人には、それは律法をないがしろにする考えでした。しかし、律法をないがしろにするのではなく、返って確立するのです。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。8:3〜4

 イエス様は私たちと同じように肉の姿を取られました。もしそうでなければ人間の罪の身代わりとはなれなかったでしょう。そして罪深い肉を十字架に処罰されました。イエス様は律法を完全に守られたのですが、罪びとのように処罰されました。

しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」9:31〜33

 律法を守ることは人間には不可能です。だから信仰によって義と認められるのです。ちょうど試験に落ちたのに、お情けで卒業できたというのと同じです。それを認めるのが信仰です。信仰とは自分には律法を守る力はない、だからイエス様の義(律法を守った立場)に寄りすがる他はないと自分で認める謙虚さのことです。徹底的なへりくだりだけが私たちに神の前に出ることが出来る立場を与えるのです。

兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。10:1〜4

「キリストが律法を終わらせられた」という言葉に注目してください。律法はキリストの十字架以降、もう終わったのです。イエス様は十字架の上で「全てが終わった」と言われました。それは私たちの贖いが完了したと言う意味ですが、同時に律法の終わりも意味しているのではないでしょうか。イエス様の十字架までは、律法は有効でした。それは律法の時代でした。だから山上の垂訓は律法の時代のお話です。それは一面で正しい律法の解釈を与えるものでした。しかし、十字架以来、行いによる義は無効になりました。もともと行いによっては誰一人、義とはされなかったのです。アブラハムもモーセもダビデも行いではなく、信仰によって義とされていたのです。感謝しましょう、私たちは自由です。そしてイエス様は私たちに新しい律法を授けられました。それは、次のようなものです。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22:36〜40

神を愛し人を愛しなさい。それが新しい戒めです。それがトーラーやミシュナやゲマラーに代わる新約時代の律法なのです。それは何々をしてはいけないではなく、愛しなさいです。神と人とを愛することそれが救われたものの新しいトーラーなのです。
山上の垂訓は一方で律法でさえこれほどの恵と祝福に満ちたものだったのだという教えでもあります。それは救われた者にとっても無関係ではないのです。

*このテープのメッセンジャーはユダヤ人のアーノルド・フルクテンバウム博士です。この方の解説のうちで一つだけ、私にはすぐに納得できないものがありました。それは「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」マタイ23:39と言うところから、ユダヤ人が民族的に救われなければイエス様の再臨はないと断言している点です。私はこの箇所だけで再臨の時を定めることは出来ないと思います。その点以外は教えられるところが大変にありました。感謝です。