メッセージ 2003・6・15 小 石 泉
ロゴスとメムラ
最近のことです、ひょんなことから私は長い間忘れていたテープを聞きました。それは「ユダヤ人の視点で見たイエスの生涯」という題名でした。私はそれをずいぶん前に誰かから貰ったのですが、誰だったかすら忘れていました。それというのも私にはユダヤ人でイエス様をキリストと認めた人々(メサニックジュウという)に対してある疑いを持っていたからです。それはユダヤ教で聖書より重んじられるタルムードという書物の故でした。
タルムードは長い年月にわたって、旧約聖書の解釈やラビの教えを記した膨大な書物です。しかし、当然といえば当然なのですが、その中にはイエス様やキリスト教をあざけりののしる、ひどい文章があるのです。その中の最もひどいものは「イエスは熱い大便の中でゆでられている」(ギッテン57b)というものです。また「クリスチャンは全て殺さなければならない」(アボダー・ザラー26bその他沢山)ともあります。ですから私はメサニックジュウがこのタルムードを拒絶しない限り、信じられないのです。皆さんはいかがですか?
しかし、そのテープを何気なく聴いているうちに、すばらしい真理に導かれて興奮しました。そして、そのユダヤ人のクリスチャンが本当にイエス様を愛し、信じていることが判りました。そのテープは6本あるのですがその中の少しだけを今日はご紹介しましょう。
メッセンジャーはまずヨハネによる福音書の冒頭から、ショックを与えました。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:1〜5
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネ1:9〜14
ヨハネによる福音書はギリシャ語で書かれています。そして、この「ことば」という言葉はロゴスというギリシャ語が使われています。ロゴスはギリシャ語で「理性」とか「言葉」という意味です。それはギリシャ哲学の背景によって表される宇宙論、神論に使われます。そして異邦人であるユダヤ人以外の聖書の解説者の99%はイエス様についてギリシャ哲学のロゴスの実現者として説明します。しかし、このメッセンジャーは、それは違うというのです。ヨハネはギリシャ哲学など知らない単なる漁師に過ぎない。ヨハネが使いたかった言葉は当時ユダヤで使われ、イエス様も使っていたアラム語で「メムラ」という言葉なのだ、というのです。これはショックでした。私もロゴスから説明していたからです。一世紀のユダヤ人たちはラビ(ユダヤ教の教師)たちからこのメムラについて聞いていました。メムラは「ことば」という意味ですが、ラビたちは、
1.メムラは神とは別のもので、神である、と教えました。それは矛盾した言葉なのに、ラビたちはその矛盾については説明しませんでした。というより説明できなかったのです。
この事は三位一体の真理が開かれないと説明できないのです。
ヨハネも、「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と書いていますが、それについては説明していません。ヨハネはラビたちが教えているメムラはイエス様だよとはっきり言っているのです。当時のユダヤ人たちはヨハネの言う意味を明確に理解したはずです。次にラビたちは、
2.メムラは天地を創造した、と教えました。神はメムラを通して天地を創造されたと教えたのです。これは箴言の言葉からも証明されます。
「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」8:22〜31
ヨハネも「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と言うことによって、イエス様がメムラだと言っています。ヨハネはラビたちの教えをそのまま受け継いでいるようにさえ見えるのです。次にラビたちは、
3.メムラは救いをもたらす、と教えました。ヨハネは「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書いています。メムラは明らかに救い主です。そしてイエスとはヘブル語でイエシュア、「ヤハウエは救い主」という意味ですから、謙虚に受け入れるならユダヤ人に判らないはずはなかったのです。次にラビたちは、
4.メムラは神の見える形での現れ、と教えました。ラビたちは、メムラは神の顕現、栄光の現れであると教えたのですが、その際、シェカイナという言葉を使いました。それは神の目に見える臨在の現われだと言う意味です。そしてこのシェカイナはユダヤ人にとって特別な言葉でした。それはモーセの幕屋に現れた神の栄光のことだったのです。
そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。出エジプト40:34〜35
神の臨在は雲、火、光によって現れます。モーセの幕屋に満ちた神の栄光、シェカイナはその中の契約の箱のケルビムの翼の間に光として止まりました。モーセの幕屋は聖所と至聖所に分かれていますが、聖所には7つの枝を持つ燭台があって照らしていました、しかし、至聖所には明かりは全くありませんでした。そして、このシェカイナの光があったので大祭司は中で仕事をすることが出来ました。ヨハネは「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と言っていますが、この中の「住まわれた」という言葉は普通の住むという言葉ではなく、本来ならシェカイナと言い表されるような言葉を使っているのだそうです。
しかしながらイエス様は光り輝く姿をしておられず、ごく普通のユダヤ人の男性でした。それは丁度、モーセの幕屋がその至聖所が黄金で覆われ(聖所も)、シェカイナの光によって照明されていたけれど、その上にケルビムが刺繍された布、ヤギの毛の布、赤く染められた雄羊の皮、最後にジュゴンの皮で覆われていたように、イエス様も人間の肉を着ることによって栄光が覆われて見えなかったのです。ジュゴンの皮は決して美しいものではなかったように、イエス様も
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」イザヤ53:2
と預言されていた通りでした。
ヨハネはペテロ、ヤコブとともに高い山に登り、イエス様の栄光の御姿を見ました。それは神の栄光の現れ、シェカイナの姿でした。だから彼は「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と確信を持って言うことが出来たのです。
私はこのシェカイナと言う言葉は前から知っていましたが、それとイエス様が同じ言葉で表されると言うことに驚かされました。ただモーセの幕屋に現れた神の栄光とだけしか思っていなかったからです。ラビたちはこのように教えながら、自分たちが教えている内容を知らなかったのです。次にラビたちは、
5.メムラは契約の仲介者である、と教えました。そしてヨハネはこのことについては直接は書いていませんが、パウロ先生はこのことを力強く論証しました。
しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。へブル8:6
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。ローマ3:21〜22
イエス様は神と人との和解の契約の仲介者として、ご自分の血によって署名され、私たちの罪を許す新しい契約を神と人の間に打ち立てられたのです。ヨハネは
「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」1:17
と言っていますが、これはパウロ先生の言葉を先取りしたように見えます。
ラビたちはそのことが理解できぬままに、メムラは契約の仲介者であると教えていたのです。次いでラビたちは、
6.メムラは神の啓示を与える、と教えていました。ヨハネは
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」1:18
ということによって、イエス様が神について誰よりも知っておられ、人に語ることが出来たと言っています。そして
「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。」14:24
と言うことによって、神の完全な啓示を与える方であることを証明しています。
ヘブル書で、パウロ先生は
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」1:1〜2
と言っていますが、ヨハネはもっとユダヤ的に、当時のラビたちの言葉をそのまま用いることによって、イエス様がメムラであり、あなた方が待ち望んでいたメシヤですよと語っていたのです。
考えてみれば弟子たちは全てユダヤ人でした。ユダヤ人が回復されるとき、聖書の真理は本当に私たちに輝きを増して迫ってくるのでしょう。