メッセージ 2003・5・25 小 石
泉
神を体験する鍵
テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」使徒の働き1:1〜5
復活されたイエス様が最も大切なこととして弟子たちに命じられたことは次のことです。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」すなわち聖霊のバプテスマを受けるまでエルサレムに留まりなさいということでした。
4つの福音書によれば、イエス様の先駆けとなったバプテスマのヨハネはイエス様のことを紹介するのに「聖霊によってバプテスマを授ける方」と言っています。救い主を表す言葉、「見よ、神の子羊」と言ったのはヨハネによる福音書だけです。これはちょっと意外なことですが、バプテスマのヨハネにとってもイエス様にとっても聖霊のバプテスマがイエス様のアイデンティティを表現する最も大切な言葉でした。そして、その日が来ました。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。使徒の働き2:1〜4
ペンテコストの日、収穫祭の初めの日にそれは起こりました。120名ほどが集まって祈っていると炎のような舌(グロッサ)が現れ、弟子たちは他国の言葉(グロッソラリア)を話し出したのです。これが聖霊のバプテスマと呼ばれるものでした。そしてこの「他国のことば」という言葉は異言とも訳されています。要するにわからない言葉と言う意味です。その日から弟子たちは本当に、
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。1:8
という言葉の通りにイエスの証人となって全世界に出て行きました。この聖霊のバプテスマは弟子たちだけの体験だったのでしょうか。そうではありません。ペテロさんはその出来事の後の説教で
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。2:39
と言っているからです。
ところで私はペンテコスト派で救われ、聖霊のバプテスマの教えを受け、実際に自分自身が異言を与えられ、今でも異言を語るものですが、異言と聖霊のバプテスマの関係に明確な答えが見出せないままでいます。論理と実際の間のギャップに答えがないのです。
私が生まれ育ったアッセンブリー教団は当初「聖霊のバプテスマは異言を伴う」とはっきり言っていました。今でもそうかどうかは知りませんが、それはかなり強烈な主張でした。そのころは激しい祈りがあったものです。ところが近頃はアッセンブリーだけではなくペンテコスト派全体にかなりトーンダウンして来ました。それはある意味でペンテコスト派が大人になったと言うことなのかもしれませんが、やはり実際とのギャップによるのだろうと思います。
そこには二つの疑問があります。
聖霊のバプテスマは必ず異言を伴うのか。
聖霊のバプテスマを受けたなら力を受けたのか。
ここに二つの例があります一つはユダヤ人と異邦人の混血だったサマリヤ人の出来事です。
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。8:14〜19
このシモンと言うのは魔術を行っていた人でした。彼は聖霊がサマリヤ人の中に下るのを「見て」金を出してまでその力をほしがったのです。ここから見ても聖霊を受けると他人でも確認できるということがわかります。それは異言であるとは書かれていませんが、その可能性は極めて高いのです。二番目に異邦人の中に起こったことです。
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」10:44〜47
ここでははっきりと異言が聖霊のバプテスマの証拠とされています。
ところがTコリント12:3には「聖霊によらなければ『誰もイエスは主です。』ということは出来ない」とあって、全て信じる人には聖霊は与えられているのだと教えています。それらの人々はいつ聖霊のバプテスマを受けたのでしょうか。そしてほとんどのクリスチャンは異言を語らないのです。そしてさらに問題なのが異言を語るというクリスチャンと語らないクリスチャンの間にはそれほどの違いはないということです。
私が私なりに理解していることは、全てのクリスチャンはその信じたときに聖霊は宿って(レジデンス)います。しかし、今日、聖霊のバプテスマと言う体験は、その宿っている聖霊がその人の完全な主(プレジデント)となる瞬間があるということです。これは趙ヨンギー先生の説明ですが、私の体験からもそういうことが出来ます。
私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。ヤコブ3:2
最近の医学の発見によって、人間の言語中枢神経は全身の神経を支配していることがわかったと言います。ヤコブはそのことを知っていたかのように、言語を制御することは全身を制御することだと言っています。聖霊が私たちの全身を支配したとき、その表れが言語であることは実に自然なことです。ですから異言は最も適切な聖霊のバプテスマの表れです。
私はこう考えます。「聖霊を受けた人は異言を語り得る」。だれでもクリスチャンなら異言を語ることが出来るのです。ただ求めないから与えられないのです。異言はそれに引き続いて起こる多くの聖霊の賜物の宝の箱を開ける鍵のようなものです。異言を語ると、とても祈り易くなります。異言は神の霊的世界を開く窓と言っていいでしょう。
しかし、だからと言ってそれによって人間が瞬間的に完全に清くなったり、圧倒的な力に満ちると言うことでもないのです。一言で言えば、神を体験する瞬間です。それを持続できれば大きな業になると思いますが、悲しいかな罪深い人間はそのような至福の状態を保つことは難しいものです。ちょうど山の上で栄光の姿に変貌したイエス様を見た3人の弟子たちのように、それは事実なのですが、山を降りればただの人といった具合です。これが正直な私の体験です。
次によく言われる誤解を指摘しておきます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。Tコリント13:8〜12
ここに「異言はやみ」とあるから異言は初代教会だけの体験だと言う説です。それではいつ知識はすたれましたか? いつ顔と顔とを合わせて見ましたか? いつ完全に知られましたか? ここはまだ起こっていないイエス・キリストとの再会のことを言っているのです。ただ単に自分の主張にあう言葉だけを拾い出してはいけません。さらに、
さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。12:4〜11
とあります。しかし、ここは一番誤解されているところです。ここにあるように異言は聖霊の賜物の一つだから、ある人にはあり、別の人にはないものだと言うのです。それではその賜物の一つに「信仰」がありますが、信仰はある人にはあり、別の人にはなくて良いのでしょうか。そんなことはありません。クリスチャンはみんな信仰を持っています。
聖霊の賜物と言うのはクリスチャン全てに与えられている能力の中で、特別にある分野で有能になることを言うのです。誰でも祈るなら癒しを受けることがあるではありませんか。
聖霊のバプテスマは信じたときに与えられるものだと言うのが一番妥当な考え方のようです。ただ、確かにそれがあふれる経験と言うのもあるのです。その経験をした人は自分の努力ではなく、また他人の家の父親と話すような関係ではなく「アバ父よ」と、神との親しい関係に入ることが出来ると言うのも私の見てきた事実です。聖霊のバプテスマとは神を体験する瞬間です。ここで瞬間というのは短い期間と言う意味ですが、それが永続するように求めるべきだし、それが出来る人を本当に霊的な人というのでしょう。