メッセージ    2003・5・18       小 石  泉 

神のスケジュール


 旧約聖書の祭りとイエス様の十字架と復活それに続くペンテコストの聖霊の降臨の間には驚くべき計画性があります。それは1500年という時間を越えて、神様がご自分のスケジュールを確実に実行される力を私たちに知らしめるのです。今日はそのことを旧約聖書の祭りを通して見て行きましょう。少し長い引用になりますが読んで下さい。

主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」出エジプト12:1〜20

 モーセはエジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエル人を救出するように神様に命じられ、神様はエジプトを9つの災いで打ちました。そして最後の災いを下す前にイスラエル人に話したのがこの箇所です。その災いはエジプトの長男を皆殺しにするという恐ろしいものでした。王様から乞食にいたるまで、家畜や獣の長子までが殺されるというものでした。これは、普通は考えられない災害です。病気なら長男だけを狙い打ちにするということはないわけです。正確に全ての家の長男だけを選別して殺すというのです。それは正に全知全能の神にしか出来ないことでした。(長男という場合、家によっては父親も祖父も孫も長男ということもあるので、一家の全ての男が死ぬということもあったと思われます。)
 しかし、この災いを免れる方法がありました。それは羊を殺し、その血を家の門柱と鴨居に塗る家は神の裁きは過ぎ越すというものでした。そこからこの事件を「過ぎ越しの祭り」としてイスラエル人はその後の歴史の中で言い伝え、守ってきました。その祭はイスラエルの正月、アビブの月(日本で言うと3〜4月)の14日の夕方、羊を殺し、血を門柱と鴨居に塗り、15日から7日間、種入れぬパン、すなわちふくらし粉、イースト菌を入れないパンを食べるという変わったものでした。
 それは、その次の日15日にはエジプトを脱出しなければならず、イースト菌を入れてパン生地が膨らむのを待つ時間がないということを象徴的に表したものでした。
 さて、イエス様が十字架にお架かりになったのは、それから約1500年後の、アビブの月の14日、正にこの「過ぎ越しの祭り」の子羊が殺される時間でした。
 イエス様は十字架の上で「完了した」と叫ばれて息を引き取られました。わき腹に刺された槍の傷から血が流れ、その血によって私たちの罪のあがないが完成しました。ですからイエスの血を信じ、心の門柱と鴨居に塗る人々の罪を神の裁きは過ぎ越すのです。
 そして「種入れぬパンの祭り」は罪なきイエス様を表しています。イースト菌は腐敗を表すと考えられているのです。イエス様が「わたしは天から下ってきたパンである」というときこのパンを表しているのです。私たちが教会で聖餐式に食べるパンはやはりこの種入れぬパン膨らんでいないパンを使うのもそのためです。イスラエル人はこのパンのほかに苦菜を食べましたが、これはエジプトの苦しみを表しています。現在のユダヤ人は苦菜の代わりにホースラデイッシュ(練りわさびの原料である辛い大根)を食べるそうです。
 さて、この過ぎ越しの祭りの中に「初穂の祭り」というのがあります。

また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。出エジプト23:16

ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。レビ記23:9〜11


 実は長い間、私はこの「初穂の祭り」が「過ぎ越しの祭り」のどこに位置するのかわかりませんでした。「種入れぬパンの祭り」の7日間の中にあることは判るのですが、何日目かがわからなかったです。ところが何のことはないこれは日付と曜日の関係を錯覚していただけでした。「過ぎ越しの祭り」はアビブの月の14日から始まりますが、「初穂の祭り」は“安息日の翌日”とあるではありませんか。「種入れぬパンの祭り」の一週間の中には必ず安息日があるわけで、その翌日です。
安息日の翌日? ン? どこかで聞いた日ですね。そうですイエス様の復活の日です。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。マタイ28:1

そしてパウロ先生は次のように言っています。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。Tコリント15:20〜21

「初穂の祭り」「安息日の翌日」「眠った者の初穂として」……なんと驚くべきことでしょうか、神様はBC1500年にイエス様が私たちの復活の初穂として、安息日の翌日に復活するというスケジュールを立てられ、その通りにAD29年に実現されたのです!
こんなにパーフェクトな証明はありません。イエス様はユダヤ人が待ち望んでいたメシヤ、キリストです。神のメシヤは私たちを永遠の命に復活させるために来られたのです。
さて、過ぎ越しの祭りはそれに引き続き50日目の収穫祭につながります。

あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。レビ記23:15〜16

初穂の祭りから7×7+1日、50日目を収穫の祭りとして祝うように神様は命じられました。これを5という数字のギリシャ語の読み方ペンタからペンテコストというようになりました。(ヘブル語ではシャブオットと言います。ついでに「過ぎ越しの祭り」はペサハ。)
イエス様の昇天から10日目、復活から50日目、ペンテコストの日に、命じられたままにエルサレムの家の二階で祈っていた弟子たち120名の上に聖霊が下りました。彼らは10日間集まって祈っていたわけです。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。使徒2:1〜4

この日からペンテコストの日は新しい意味を持ちました。それは穀物の収穫の祭りでしたが、それからは人間の魂の収穫の祭りとなりました。弟子たちはその日から「全世界に出て行って全ての作られたものに福音をのべつたえ」「人間を捕る漁師」になりました。神様は人間の中から御国の民を集め始めたのです。
私たちから考えると3500年前に定められた「過ぎ越しの祭り」は、その1500年後に全く新しい意味を明らかにし、今に至るまで私たちの罪を清め、聖霊を与える神のスケジュールである事を表しました。何と雄大で、緻密で、深遠な神のスケジュール。私たちは今もこの神のご計画の中に生きているのです。