メッセージ    2003・5・11       小 石  泉 

ニコデモの困惑


さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ヨハネ3:1〜8

 ニコデモという名前は「罪なき血」またはinnocent blood「無邪気な血」という意味です。彼は宗教的に熱心で厳格なパリサイ派に属し、ユダヤ人の指導者でした。七章で見ると彼はユダヤの国会に当たるサンヒドリンの議員だったことがわかります。サンヒドリンは70人で構成され、宗教と世俗の最高権威でした。今で考えるならイランのナントカ師というような存在です。このような社会的な地位にある人が、ガリラヤの田舎から出てきた若い預言者に会いに来るということは非常に異例のことだったのでしょう。彼は人に見られないように、夜、いわばお忍びでやってきたのです。
 しかし、ニコデモの中にはどうしても解決できない問題がありました、「一体、この若者は何者なのだろう?」彼は言います、「先生あなたは神から使わされた方に違いありません。」厳しい律法を守る彼の信仰、人生経験の全てを通しても決して到達できなかった心の状態、平安の境地、そして不思議で力ある業をなぜこの若者は持っているのだろうか。どうしたらそのような力と心の状態をもつことが出来るのだろうか。
 ところがイエス様は全くニコデモの予想しなかった答えをします。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」。 ええ! 新しく生まれる? これまでに積み上げてきた厳しい律法を守る厳格な修行は無駄だったというのか? 誠実に国民のために尽くしてきた議員としての善行も意味がないというのか? 神の選民としての誇りと希望は何もならないというのか? 彼はかろうじておよそ単純な言葉しか出せませんでした。
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエス様はたった一言でニコデモの誇りと人生経験と苦労と打ち砕いてしまいました。そして言われました、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
 「まことに、まことに」というのは原語ではアーメン、アーメンですがイエス様が非常に大切なことを言われるときに良く使われた言い回しです。水といわれたとき、誰でもすぐにわかったのはバプテスマのヨハネのことでした。それは悔い改めの表現です。それは神の前で自分の肉の死を意味します。しかし、御霊によって生まれるとは何を意味するのでしょう。ニコデモはますます判らなくなりました。ニコデモだけでなく弟子たちの全てにこのことが本当に理解されたのはイエス様の十字架と復活の後、ペンテコストの日に聖霊が下ったときでした。イエス様はニコデモの困惑はそっちのけで、ますますなぞめいた言葉を語られます。実際、この時点で誰にも理解できなかったのです。説明のしようのないことだったのです。経験しなければわからなかったのです。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 ここにいう「風」はギリシャ語では「霊」と同じ言葉でプニューマです。私たちが風を捕らえることが出来ないように、御霊から生まれることも人間の努力や才能や経験では出来ないとイエス様は言われたのです。私たちは全く謙虚になって、神の御前にぬかずくことだけしか出来ないのです。結局、ニコデモにはこれらの言葉は理解できませんでした。ヨハネは唐突にこの話を終わらせてしまいます。

ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」3:9〜15

 ヨハネはこのイエス様の言葉に対するニコデモの反応を全く無視して、全く別の主題、それも聖書の中の聖書、もっとも偉大な御言葉とも言うべき言葉に何のためらいもなく移行してしまいます。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:16

 この御言葉自体は実に重大ですばらしいのです。しかし、読んできた者は何か忘れたような気持ちがするのです。ニコデモはどうなったの?  その後、ニコデモは7章と19章に現れます。

すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」7:47〜52

 イエス様のことでサンヒドリンが裁きに向かったとき、ニコデモはそれを止めようとしました。しかし、どこかまだ及び腰です。はっきりと自分の信仰を表すにはいたっていません。その後、十字架の後で彼は再び現れます。

そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。19:38〜40

 イエス様が十字架にかかり弟子たちが逃げ去ってしまっていたとき、当時、非常に裕福な商人だったアリマタヤのヨセフとともにニコデモははっきりと自分を表します。もっとも悲惨で困難な中で彼は決然とイエスに従うものであることを公に表したのです。
 葬りに関わったニコデモが復活にも預かったことは間違いありません。そしてイエス様にお会いしたに違いありません。そしてイエス様の言葉に従って、エルサレムの家の二階で聖霊のバプテスマを受けたに違いありません。
 「罪なき血」という美しい名前の持ち主であったニコデモは本当に罪なき血の持ち主イエス様にお会いし、その死と復活にめぐり合い、弟子たちの祈りに参加し、水と御霊から生まれ、新しく生まれました。聖書はその後もニコデモについては何も書いていませんから、これらは推測に過ぎません。しかし、そんなに間違った推測でもないでしょう。
 イエス様とのあの不可解な出会い。しかし、それは全ての人が出会うべき出会いなのです。神の国に入るには、あなたの経験も努力も家系も何も役に立ちません。ただ、思いのままに吹く「風」を待つしかないのです。そして風は求めてくるものには必ず吹くのです。

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。ルカ11:11〜13

 その風はイエス様の十字架の日から50日目に吹き始めました。