メッセージ         2003・4・20    小 石  泉 

復活の言葉


 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。マタイ28:1〜15

 復活の物語はもう何度もお話しているのでよくご存知のことと思います。弟子のうちの女たちは勇敢にもイエス様の遺体をもっと丁寧に埋葬しようと墓に向かいました。何しろ十字架の日はもう日没が迫り、日没とともに安息日が始まるので急いで埋葬しなければなりませんでした。しかし、彼女たちの問題は墓を覆っていた石の蓋でした。

 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。マルコ16:3〜4 

 アリマタヤのヨセフはお金持ちだったのでそれは特別に“大きな石”でした。その石の蓋は厚さが60センチ、直径が4メートル(普通は1.6メートル位)もあったと考古学者ロン・ワイアットさん(インディ・ジョーンズのモデルとなった人。実際は熱心で誠実なクリスチャンです。)は言っています。それは太い鉄の楔で留められ、溝に入っていました。その鉄の楔は引きちぎられて今でもその残りが岩の中にあるそうです。重量13トンもあるこの石を天使は軽々と転がし、数十メートル投げ飛ばしたとロン・ワイアットさんは言っています。(信じられないかもしれませんが、ジョナサン・グレイ著林陽訳「契約の箱」徳間書店刊P190には詳しく説明されています。)それは地震と思われるほどの衝撃を与えました。
 「ここにはおられません。よみがえられたからです。」天使たちの言葉は世界で初めて語られた言葉です。イエス様の遺体はもうありませんでした。最近、あるテレビの番組でスリランカにある釈迦の歯のことが放送されていました。それは厳重な箱に入れられ、その箱すら見ることを許されていないのです。世界には釈迦の骨と言われるものが無数にあります。舎利と言われるこの切れ端を手に入れればそれこそ大金持ちになれるでしょう。しかし、それは釈迦が死んだことの証明です。世界にイエスキリストの舎利と言うものはありません。キリストはよみがえられたので、遺体も骨もありはしないのです。
 そしてこの復活の日に語られたもっとも奇妙な言葉は、祭司長たちの言葉でしょう。「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。と言うのだ。」なんと奇妙な言葉でしょうか。当時の祭司長の権限をもってすれば弟子たちを探し出し、拷問にかけてでもイエス様の死体を見つけ出すことなどたやすい事だったのです。彼らがまずなすべきことは兵士たちに金をやるのではなく、厳罰を与え、直ちに探索の命令を下すことでした。ところがそんなことは考えもしなかったようなのです。
 ということは? そうです祭司長たちはイエス様の復活を信じたのです! 彼らはイエス様の遺体を弟子たちが盗んだと「嘘を言え」と命じています。嘘を言えと言うことは本当のことを知っていることになりませんか? これは復活の話のもっとも奇妙な部分です。
 神の御子はなぜ死んで復活なさったのでしょうか。それは次の御言葉で判ります。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。ヨハネ12:24

 イエス様は多くの実を結ぶために死んだのです。私たちが死んでも「罪の支払う報酬は死」であってプラスマイナス=ゼロです。しかし、罪のないお方が死んだら、そこには無限の命が生み出されるのです。それはご自身の復活の命だけでなく、信じるもの全ての復活の命が溢れてきました。イエス様は一粒の麦としてご自身を地に埋められ、無数の麦である私たちが生み出されてきたのです。

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」11:25〜26

 なんと奇妙な言葉でしょうか。こんなことを言う人間は馬鹿か気違いか、さもなければ神の子です。中間はありません。キリストをただの良い人や聖者とすることは出来ないのです。イエス様は熱に浮かされて語ったのではありません。真実を語ったのです。あなたこれを信じますか? たとえ嘘にしても驚くべき言葉です。だから私は嘘でも信じます。そしてこれは嘘ではありません。
 そしてここに私が“神のBe動詞”と名付ける力強い言葉があります。それは「私は○○だ」という言い方です。「私は道であり、真理であり、命である。」「私は命のパンである」「私がそれだ」。これらはすべて英語のBe動詞のTamで出来ています。それは神の名、ヤハウエ、在りて有るもの、T am that Tam と同じ言葉です。
 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」
 神の子の死は命をあふれさせました。それはみなぎり溢れて死を打ち破り、ご自身の復活だけでなく信じるもの全ての復活の命となりました。使徒パウロは死をあざ笑って言いました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」Tコリント15:55
 あなたは復活の約束を持っていますか? 保障をいただいていますか。それはただ、「信じます」というあなたの言葉によるのです。