メッセージ 2003・4・13 小 石
泉
三 人 の 道
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」マタイ26:6〜12
イエス様が十字架につく前の数日間、事態は緊迫していました。日曜日のエルサレム入城の後、今にもイエス様が軍事行動を起こすだろうと期待していたことが民衆だけでなく弟子たちの言動で分かります。イエス様は何度も自分が死ぬことを話したのですが弟子たちはそれを理解できませんでした。しかし、ラザロの姉妹マリヤだけはただならぬイエス様の言葉からそれを理解しました。彼女が、イエス様が言うように「埋葬の用意」を意識していたとは思えませんが、ただ何か特別なことを主にしなければならないと思ったのでしょう。
彼女は自分の持っているものの中で最高のものをささげようと思いました。それは高価なナルドの香油でした。この地方では女性たちは香水の代わりに香油を用います。香水ではすぐに蒸発してしまうからです。彼女は石膏(アラバスター)のつぼを砕いて、惜しげもなくそれをイエス様の頭に注ぎ、足に塗りました。香りは部屋中に満ちました。
弟子たちのうちでイエス様の集団の財布を預かっていたユダは即座にその香油の価値を計算しました。それは300デナリ、約300万円もすると踏んだのです。(ヨハネ12:1〜8、マルコ14:1〜9参照)ユダは貧しい人々に対する思いやりからではなく金に執着していたからだとヨハネは言っています。マリヤはいつもイエス様のそばにいて、イエス様の御心を知ることを努めた人でした。一方ユダは3年間もイエス様と行動を共にしながら、結局イエス様のことが理解できない人でした。
そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。14〜16
ついにユダは最も卑劣な人間性を表します。愛に満ち、ヨハネが「めぐみとまことに満ちていた」という主を売ると言う行為に出たのです。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」何という恥ずかしい言葉でしょうか。神の御子の値をつけてくれというのです! それはわずかに銀貨30枚、約6万円です。
大祭司たちが金を払ったのは、その必要があったからです。圧倒的な力の差を考えれば、ユダの申し出など必要ないと追い払うことも出来ました。しかし、民衆を恐れていた彼らはユダの思いがけない申し出に渡りに船と金を払ったのでした。つまりこういうことです、ユダの裏切りがなければイエス様は捕らえることが出来なかったか、難しかったのです。
さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。17〜25
「先生。まさか私のことではないでしょう。」「いや、そうだ。」なんという会話でしょうか。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者」(ソースにパンを浸して食べる習慣です)日本的に言えば同じ釜の飯を食った仲のユダとイエス様の会話です。イエス様の悲しみが分かります。
イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。ルカ22:47〜48
ユダは最後にはイエス様を口づけで捕っての人々に教えます。最も親密な間柄を表すことで最も卑劣な裏切りが行われました。さすがのイエス様も驚いて言われました、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」人間の罪の深さをまざまざと見る思いです。
さてもう一人の弟子の場合を考えましょう。
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。ルカ26:31〜35
ペテロはイエス様が弟子たちが皆つまづくといった時、自分に限ってそんなことは絶対にないと思っていました。そしてイエス様が「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言ったとき心中おだやかでなく憤慨していたことでしょう。そんな馬鹿なことがあるものか、自分が主を裏切るなんて…何ということを言うのだ、イエス様は。しかし、実際にイエス様が捕らえられたとき彼の確信はもろくも崩れ去りました。
ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロは皆の前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って激しく泣いた。マタイ26:69〜75
ペテロの肉の熱心、生まれながらの精神による決意、忠誠はもろいものでした。せっかく大祭司の家の中庭まで行きながら、女中の言葉におびえて必死になって否定していました。そしてその弱さに気がついたとき、彼は激しく泣きました。
人の力で神の要求に答えることは出来ません。私たちは神への忠誠すら哀れみの中で保てるのです。復活の後に、あのガリラヤ湖の岸でイエス様はペテロに尋ねました。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」ヨハネ21:15〜17
「あなたは私を愛するか?」「あなたは私を愛するか?」「あなたは私を愛するか?」ペテロの3度の否定に対する3度の確認。「ペテロ、わたしはあなたを愛しています。わたしはあなたを許しています。わたしはあなたに期待しています。」
神は人の弱さゆえの罪を許されますが、強さの罪、傲慢で無反省で強欲な罪は許しません。ユダの罪は許されることはなかったのです。
その夜、彼らはゲッセマネの園で一夜を明かしました。ゲッセマネとは「油絞り」という意味です。オリーブ油を絞ったところです。そこでイエス様は血の汗を絞り出して祈られました。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。マタイ26:38〜44
ある高名な仏教層がこの箇所を見て笑いました。キリストはそんなに死ぬのが怖かったのか。いいえ、違います。イエス様が恐れたのは「この杯」です。その杯の中に救われる全ての人の罪が入っていました。全く罪というものがないお方、完全に清い方が、罪を身に受けることを恐れたのです。そして罪と神との断絶。神と永遠から永遠まで離れることのなかった方なのに。イエス様は十字架の上で叫びました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか!」罪の塊となったイエス様を神様は直視できませんでした。その罪とはあなたと私の罪です。やがてイエス様は最後に言われました。「完了した。」罪の贖いが完了しました。その瞬間、私たちの罪は許されました。主よ感謝します。