メッセージ 2003・3・30 小 石 泉
主イエスの国
アメリカとイギリスが全く理不尽な戦争をイラクに仕掛けています。どう考えても正統性のない攻撃です。もし私がアメリカの牧師なら、このことに反対を叫び、教会でも説教するでしょうか。ところが会衆の中には戦場に息子や娘を送り出している家族や、友人を送った人々もいるのです。その人々の心を思うと、どうしたらいいのか分かりません。
しかし、聖書を開くとイエス様は次のように言われています。
ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。ヨハネ18:3538(口語訳)
「わたしの国はこの世のものではない。」これほどはっきりした解答はありません。イエス様の国はアメリカでもイラクでも日本でもないのです。それは真理の国、心の王国です。ピラトは聞きました、「あなたは王なのだな」「あなたの言うとおり、わたしは王である」。
この一週間前、イエス様はエルサレムに入城されました。民衆は歓呼して迎えました。
その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。同12:12〜15
イスラエルの民衆は感激していました。ついに待ちに待ったメシヤが来た。とうとうローマを滅ぼし、世界を支配する王の王が来た。それにしては王の乗り物で、戦争に赴く馬ではなく、平和の使者の乗るろばであることが不思議だとも思いませんでした。そして、恐らく彼らは家に帰ると隠し持っていた剣や槍を取り出し、それを研ぎ始めたことでしょう。ついにイスラエルの解放と、世界征服の戦いが始まるのだと。
しかし、イエス様は一向に戦いを宣言しないのです。それどころか、
そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。12:19〜28
なんと自分の死を予告したのです。支配階級の人々でさえ「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」と恐れているのに。
人々の期待は失望に変わり、失望は怒りに変わりました。そしてイエス様は一週間後に十字架に掛けられました。なぜ? 「わたしの国はこの世のものではない」からです。
私たちもこの世のものではありません。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ3:20
世界にはいろいろな問題が起こります。しかし、私たちは、肉体はこの世の国のものですが魂はこの世のものではありません。この世の戦争や悲劇を無関心ではいられないですが、それによって魂まで奪われてはならないのです。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。使徒3:4〜8
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」この世では金銀はなくてはならないものです。しかし、弟子たちはそれよりも大切なものを持っていました。それはイエスの御名の権威でした。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。4:12
世界中でもっとも偉大な名前、それはイエスの御名です。私たちは基準が違うのです。
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」4:18〜20
この世の権威と、神の国の権威、それがぶつかり合ったときに、どちらの権威に従うかはおのずから明白です。しかし、これはあくまで霊的な場合であって、戦争に行くか行かないかというような問題ではありませんから念のため。これは真理のための戦いであって、この世の問題ではありません。
イエス様は「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。」と言われました。ピラトは聞きました「真理とは何か」。イエス様はピラトには答えませんでしたが、弟子たちには話しておられました。
「わたしは道であり真理であり命です。」
私たちは戦争が早く終わることを祈ります。そしてどんなときにも、それこそ戦争の真ん中でもイエス様を呼び求めます。そこに全ての解決があるのです。