メッセージ    2003・3・23     小 石  泉 

神は愛です


愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
ヨハネT4:7〜11


 神は愛です。ヨハネはそう言い切りました。神は愛に満ちているとか、愛の深い方だというのではなく、愛だと言うのです。愛は神の御性質ですが、ヨハネには、神は愛そのものに見えたのです。他のどんな宗教にも、どんな哲学にも、どんな偉人の伝記にもこのような言葉はなく、比較するものもありません。
 いつも言うようにギリシャ語の愛にはアガペー、フィレオー、エロースと三つの言葉がありますが、ここに言う愛はギリシャ語のアガペーです。神は愛であるということはなんと言う希望でしょうか。この世界は愛によって創られ、愛によって保たれているのです。人間はそれをいいことに、思いのままに振舞っています。もし、神が愛でなければ、人類には混乱と憎しみと悪意しかなかったでしょう。
 そのような人間を救うために、神は御自分の御子を十字架におつけになりました。人を裁く代わりに御自身が傷つく道を選ばれました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。
 神は私たちも互いに愛し合うように求められました。

「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。」(口語訳)

 一体、人間には愛があるのでしょうか。愛とは何ですか? と聞きたくなります。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。Tコリント13:4〜8(口語訳)

 ここはどうしても口語訳の方が私にはなじめます。これは愛のあるものの姿です。よく言われるように、この愛というところに自分の名前を入れてみると、愛というものが良く分かります。「私は寛容であり。私は情け深い……。」なんと自分とは程遠いものでしょうか。しかし、イエスという名前を入れると実に適切なのです。「イエス様は寛容であり。イエス様は情け深い。」
 このような愛はもともと人間には備わっていないものなのでしょうか。人間の中には寛容な人や情け深い人、この種の美徳を備えた人もいるにはいます。しかし、限界があり、ばらつきもあります。恐らく人間にはもともと不完全ながらも愛はあったのですが、アダムとエバが罪を犯したために不安定で不確実なものになってしまったのでしょう。ですから愛は神様から補給してもらわなければならないのです。水道の蛇口が水道管につながり水道管が本管につながり本管が水源池につながっていなければ水が出ないように、私たちの愛の蛇口も神様と言う愛の水源池につながっていなければ、いくらひねっても愛の流れは流れ出ないのです。しかし、私たちを勇気づけるすばらしい言葉が続いています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
私たちが神を愛したから神は私たちを愛してくれたのではないのです。神が何の功績もない私たちを、まず愛してくださったのです! 私たちがおずおずと差し出す貧弱な愛の質や量に関係なく、圧倒的で、巨大で、深遠な愛で神が私たちを愛してくださったのです!
思わず外に出て叫びたくなりませんか。「ねえ、ねえ、聞いて、聞いて。神様が私を愛してくださったんだって!すごいでしょう!」
 愛されたことない人は、他人を愛する方法を知りません。愛されたことのある人だけが、他人を愛することが出来るのです。だからヨハネは言うのです「私たちもまた互いに愛し合うべきです。」言いかえれば、「あなたは愛されているのですから、互いに愛することが出来るのですよ。」と言うことです。
 さあ、まず誰から愛しましょうか。寛容と、慈愛と、忍耐を持って。