メッセージ        2003・3・16   小 石  泉 

神の国と神の義を


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33

 世界には戦争や悲しい出来事がいっぱいあります。また北朝鮮のように想像を絶する飢餓の国もあります。このような世界で私たちはどう生きればいいのでしょうか。もし私たちが北朝鮮に住んでいたら、この御言葉をどう受け止めることが出来るでしょうか。一体、神の国とは何でしょうか。聖書は神の国をどこだと言っているのでしょうか。なぜイエスさまは「まず、第一に求めなさい」と言っておられるのでしょうか。

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。12:28

 イエス様は神の国とは遠くにあるものではなく、イエス様が来られて以降、私たちのところに来ていると言っておられます。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:20〜21

 神の国は私たちのただ中にあると言われるとき、それは明らかに精神的な世界であっていわゆる天国と言うような特定の場所ではないように思えます。しかし、

もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。マルコ9:47

 とあるのは単なる精神的な世界だけを意味しているとは思われません。

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。Tコリント15:50

ここでは、はっきり死後の世界を表しています。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。マタイ19:24

 ここで針の穴とあるのは、魔法のように不可能を可能にすることを言っているのではなく、エルサレムの城門で針の穴と呼ばれていた、人間一人がやっと通れる小さな門のことを言っていますが、神の国はこの世的な成功者や金持ちはこの世のものがつまづきとなり関心を持たなかったり、執着して放棄できなかったりして見失うもののようです。
 こうして見ると神の国とはこの世では精神的な世界であるが、死後の世界に直結するもののようです。それはたとえて言えば、空はどこから空なのかというようなものです。私たちが見上げる空は、私たちの周りの空間とつながっています。氷河のクレバスの底に落ちたとき見上げると青い空が見えるような状況を想像してください。それが神の国です。それを強く意識する人は、ちょっとロマンチックに言えば「青空を切り取ってポケットに入れている人」とでも言うことが出来るでしょう。

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」
マルコ4:26〜27


 驚くことに神の国は私たちがその成長、発展に関わることが出来るのです。いや、イエス様は私たちがかかわりを持つことを期待しておられるのです。その関わり方ははじめから終わりまで作り上げるようなものではなく、種まきのように多くの部分を神様にゆだねる性質を持っています。「そうこうしているうちに」という訳は面白いと上石先生が笑っていたことを思い出します。

それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。ルカ9:2

それを福音と呼びます。福音はまず宣べ伝えることです。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。ヨハネ3:3〜5

 神の国は水すなわち悔い改めと御霊、聖霊の内住(聖霊が私たちの内に住むこと)によって私たちの中に生まれます。それを新しく生まれるとイエス様は定義されました。それはどうしたら分かるでしょうか。もしあなたが心から「イエスさまは神の子で、私の救い主です」と告白できれば、あなたは新しく生まれているのです。
 こうして神の国は私たちの中にあります。そのことを大切にし、そのことに最大の関心を持つことがまず神の国を求めることです。
 次に神の義について考えましょう。

神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。ローマ1:17

 義と言う言葉は非常に興味深いことに、日本人は漢字で完全に理解できます。義とは羊の下に我と書きます。これは明らかに旧約聖書の思想を持った人が作った言葉です。歴史上どこかの時代に中国に来たユダヤ人がこれを作ったのです。
羊を殺してその血を携えて神殿の至聖所に入り、契約の箱の贖罪所(しょくざいしょ)と呼ばれている蓋の上に注ぐという行為によって人の罪は許される、という思想を持った人以外にこのような文字を作るはずがありません。このことを「神の義」といいます。それはイエス・キリストの十字架を象徴しているのです。

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。3:21〜22

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。3:25〜26


神の義とは神によって与えられる罪の許し、救い、正しさです。それは一方的な恵です。全く人は作り出すことは出来ません。それは「神の義」なのです。

なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。10:3

 ほとんどの人はこのことが分かりません。人は自分の義によって神の前に正しいとされようとします。私は多くのクリスチャンを自称する人々が自分の義によって救われ、生きようとしているのを見てきました。それは全くキリスト教とは関係のない宗教です。しかし、なんと多くのクリスチャンがその誤解によって信仰を、喜びではなく苦しみに代えていることか。空しい努力と自己満足だけがキリスト教だと思っています。それは全く間違いです。それはキリストの尊い救いをないがしろにする罪です。

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。Uコリ5:21

 全く罪のない方は人類の歴史上おひとりだけしかいません。それこそ私たちの救い主となられたイエス様です。その御業を感謝して受け取ることが信仰なのです。
 こうして神の国と神の義がはっきりと理解できたと思います。そうすれば「すべてのものは添えて」与えられるのです。
 これからどんな時代が来ようとも、あなたは恐れることはありません。恐れなければならないのはこのような御言葉を忘れることです。人事を尽くして天命を待つ。なすべきことをしたら後はゆだね切ることです。