メッセージ    2003・3・2   小 石  泉 

圧倒的な勝利者


わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。エレミヤ29:11

 神様の御旨は第一に私たちが平安であり、私たちに将来と希望を与えることです。神様は意地悪な方で、私たちを苦しめ悩ましたいと思っておられるわけはないのです。いつも最善を願っておられるのです。ただ私たちの目にはそう見えないこともあります。ヨブのことを考えて見ましょう、その苦しみを通してヨブを御自分の清さにふさわしい姿にまで作り直したいと思っておられたのです。神様の許しがなければサタンはヨブに指一本触れることも出来ませんでした。それが神に従う者の特権です。

また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。マタイ21:44

 この石というのはイエス様のことであり、福音のことです。そしてその福音に生きる私たちを攻撃するものはこのようになるのです。しかし、神様は私たちが、はじめから何もなく、苦しみも痛みも悲しみも知らないようには願っておられません。苦しみを通して平安が分かり、痛みを通して何もないことが祝福であり、悲しみを通して喜びが分かるのです。神の守りは常にあり、それは敵を粉みじんに吹き飛ばすほど力強いものです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマ8:28〜39

神は「すべてのことを働かせて益としてくださる」のです。また「あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えにな」るために私たちを鍛えます。時には「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と言われるように見えても、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」一見そう見えないときでも信仰の目で見ることが必要です。

しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。・・主の御告げ。・・わたしがその中の栄光となる。ゼカリヤ2:5

 神様は私たちの火の城壁となられると言われます。いや既になっておられるのです。コンピューターにファイアーウオールというソフトがあります。これは侵入してくるウイルスを察知して撃退するのですが、同じように私たちを取り巻いて、神様の火の壁は私たちに侵入してくる敵を排除しておられます。そうでないならそれはある目的のために一時的に取り払われたのです。
 昔、ある商人がキャラバンを組んで砂漠を旅していました。彼は信仰の厚い人でいつも夜寝るときには祈って寝ました。ところがある日、真夜中に起こされたのです。そこには一団の強盗が立っていました。彼らはその商人にこう尋ねました「我々は何日もお前のあとをつけて来たのだが、毎晩お前のキャラバンの周りには武装した白い衣の兵士たちがいて襲うことが出来なかった。しかし、今日はいなかったので入ってくることが出来た。一体あれは何者なのだ。」商人ははっと思い当たることがありました、そういえば今日はあまりに忙しくて夜寝る前にお祈りすることを忘れていたのです。神の守りの天使は常に私たちの周りにいます。

 このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。U列王記6:11〜17

 イスラエルの預言者エリシャは敵の動静をあらかじめつかみ、王に伝えるのでアラムの王は自分の側近にだれかスパイがいるに違いないと思いました。しかし、ある家来がエリシャの事を教えたので、彼はエリシャを捉えようと大軍を送りました。エリシャの僕が朝起きてみると、その町を大軍が囲んでいたのです。きらめく槍、剣、兜、馬、戦車。震え上がった僕はエリシャを起こして教えました。するとエリシャは平然と答えました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」
 エリシャが神に祈ると僕の目は開かれ火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた!るのが見えたのです。私たちの周りにもこのような天使の軍勢が取り巻いています。彼らは神の御命令によらなければその任務を終えません。
 火の炉に投げ込まれたが、燃えかすひとつなかったシャデラク、メシャク、アベデネゴ。ライオンの檻に投げ込まれたがライオンは猫のようにおとなしかったダニエル、牢屋の扉が次々に開かれたペテロ、賛美していたら地震で牢屋の扉が開かれたパウロとシラス。
 神の許しがあればいつでもこのようになるでしょう。神の僕は決して害を受けず、受けるとすればそこには神の目的があるのです。私たちはただ次のようにしていましょう。

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。ホセア6:3