メッセージ 2003・2・23 小 石 泉
神の選びの器たち
さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。マタイ11:2〜11
これはバプテスマのヨハネに対してイエス様が語った箇所です。イエス様はヨハネを「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言っておられます。ヨハネはアブラハムよりモーセよりダビデより偉大だというのです。しかし、
新約のクリスチャンたち、イエス様の血によって贖われた人々は彼よりも偉大だとも言われました。これは不思議な言葉です。ヨハネもイエス様の血で贖われるはずなのです。ただ、その時はまだ、ヨハネは旧約の羊の血による贖いの中にいるから、完全な贖いを受けてはいないという意味なのでしょう。
さて、女から生まれたものの中でもっとも偉大だといわれたヨハネはこのとき獄中にありました。そして冷たい牢獄の中で、来るべきメシヤであるはずのイエス様がなぜイスラエルの王として力を表し、世界を治め、自分も救ってくれないのだろうと疑問に感じていました。ここにヨハネの人間的な側面を見ます。輝かしい「荒野で呼ばわるものの声」としての姿はありません。鉄の鎖につながれ、貧しい食事を与えられ、臭く冷たい岩の穴にいるあわれな囚人です。そして彼は釈放されることなく惨めな最後を迎えます。
実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、・・ヘロデはこの女を妻としていた。・・人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と言い張ったからである。ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」と言った。また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」と言って、誓った。そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか。」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首。」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。マルコ6:17〜28
ヨハネは時の王を恐れず、大胆にその罪を指摘したので牢獄につながれたのです。そして宴会の余興に踊った少女の踊りの代償として首を切られて死にました。これがイエス様が、女の生んだ人の中で最も偉大な人と呼んだ人の生涯です。
今、アメリカで大統領の晩餐会に招かれ、財界人や、高位高官や、ハリウッドの女優や男優と談笑し、いくつもの立派な家に住み、ホテルは最高級のスイートルームに泊まり、自家用飛行機と高級リムジンに乗っているキリストの伝道者が「パウロ以来の最高の伝道者」とたたえられています。彼はその周りの人々の罪を指摘することはありません。ですから毎年好感度ナンバーワンの人に選ばれていました。何か変だと思いませんか。
人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。ルカ6:26
ここにはっきり書かれています。人々は本当の預言者は好みません。彼らの気に入らないことを言うからです。その典型的な例があります。
それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。黙示録11:3〜13
これはこれから起こることです。いつの日かイスラエルに2人の偉大な伝道者たちが現れるというのです。彼らは「全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台」と呼ばれていますから、ゼカリヤ書4章から旧約聖書の律法と預言者の代表モーセとエリヤと考えられています。本当に彼らが来るのか、そのような霊を持った人々なのかは分かりません。イエス様が「わたしの二人の証人」と呼ぶこの人々は口から火を出し、天を閉じ、水を血に変え、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っています。本当にこんな人々が現れるのでしょうか。問題はその後です。この人々は獣と呼ばれるサタンによって殺されます。すると「地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う」のです。「それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからで」す。
苦しめた? 彼らもまた、人々の気に入らないことを言ったのです。これがイエス様の本当の証人の立場であり、受ける報いなのです。
私の友人、フリッツ・スプリングマイヤーは銀行強盗をしたという、とんでもない言いがかりをつけられ、裁判を受け、弁護士の裏切りによって30年の禁固刑に定められ、今獄中にいます。彼が日本に講演旅行に来る費用を稼ぐために銀行を襲ったというのです。その「仲間」だという犯罪者の証言によって。しかし、その講演旅行の費用は私と太田さんという人が払い、謝礼も支払いました。私はその証人として立つ予定でしたが3回も妨げられ、弁護士は20人まで許される証人を1人も立てず敗訴しました。
理由はどうでも良かったのです。この世の君はフリッツをなんとしても黙らせたかったのです。それは彼がこの世の罪と悪を大胆にあばいていたからです。彼がバプテスマのヨハネのように簡単な理由で、獄中で殺されても私は驚きません。
彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、・・この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。・・荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。へブル11:33〜38
この箇所の前半はよく読まれ、歌に歌われますが、後半は好まれません。これは神に特別愛され信頼された人々のたどる道なのです。ですから次のように書かれています。
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。11:13〜16
私は間もなくフリッツに会いに出かけます。