2003・2・16  小石 泉

私のシオン


バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。
私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。
もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。詩篇137:1〜6


これはBC585年にバビロンに捕囚として連れて行かれたユダの人々の歌です。彼らは遠い敵国で労役に使われ、戦勝国バビロンの人々からあざけられ、からかわれました。ここには彼らの故郷イスラエル、その首都エルサレムへの思いが切々と歌われています。北朝鮮に拉致された人々もこのような思いだったのではないでしょうか。遠い昔、日本から東南アジアに身売りされて行ったからゆきさんたちも「日本、恋しや、日本、恋しや」と涙の手紙を残しています。
しかし、エルサレムは特別な場所でした。そこは彼らが神に与えられた土地であり、彼らの信じる神の宮があるところでした。
口語訳聖書では「エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。」とありますが、ユダの人々のエルサレムへの熱い思いが伝わります。
さて、今、新約聖書では教会はエルサレムでありシオンです。私たちはユダの人々、霊のイスラエルと言われています。それでは私たちはこのユダの人々のようにエルサレムである教会を慕っているでしょうか。教会は決して完全ではありませんが、一旦、教会を離れると淋しいものです。私たちは、今置かれているこの教会をユダの人々のように慕い、あこがれる者でありたいのです。もちろんそのような教会とならなければなりません。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。・・・しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。・・・とこしえの喜びが彼らのものとなる。まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
イザヤ61:1〜10


教会は「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやし、捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる」ところです。教会に集う人々は「義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれ」ます。
私たちの教会に集った人々が「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださ」ったと叫ぶ姿を毎週見ることが出来たら。私はそんな夢を見ます。本当にそういう教会になりたいのです。なかなか思うようにならず、四苦八苦していますが、生きているうちに見せていただきたいものです。そのために何をすればいいのでしょうか。
シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。
その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。

あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。
エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。62:1〜7


あなたのシオン、エルサレムのために「黙っていない。黙りこまない」でください。あなたはあなたの教会のために心を燃やして祈ったことがありますか。「その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」祈り続けてください。キリストの教会というような大きなスケールでなくて、あなたの今いるこの教会を愛して、祈ってください。そうすれば「主の喜びがあなたにあり、・・・花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」ことを経験するでしょう。またそういう人々が押し寄せてきてほしいのです。だから「主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」のです。
牧師は教会に置かれた指導者ですが教会は牧師のものではありません。神様は必要に応じて牧師を取り替えることもあります。しかし、教会はあなたのものです。あなたが祈り、ささげ、導き、伝えるところです。あなたの、この教会を愛してください。ここはあなたが人生を掛けても価値のあるところです。あなたが愛して育てて無駄になるところではありません。教会はあなたの財産です。教会であなたは神に出会い、神と過ごしているのです。朝日のように、たいまつの燃えるようになるまで祈ってください。

さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。52:1〜2

私の教会は私のシオンでなければなりません。それはさめて、力をまとって、キリストの御体、花嫁とならなければなりません。夢を見せてもらいましょう。まだ、舞台は終わっていないのです。今からでも遅くはありません。ですから、福音を伝えましょう。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。52:7〜8

 良き知らせ、福音を伝える者の足は美しいのです。そして見張り人も声を上げて歌います。主イエス様が私たちのシオン、千葉グレイスチャーチに、その他それぞれの教会に帰られる、おいでになる、臨在を現されるのを、まのあたりに見たいのです。
「見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」
 祈りましょう。賛美しましょう。福音を伝えましょう。あなたのシオンのために。