メッセージ 2003・2・9 小 石 泉
天の故郷
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。ルカ12:4〜9
私たちは先週、愛するK兄弟(クリスチャンは男性を兄弟、女性を姉妹と呼びます)を御国に送りました。52歳の若さでした。私たちは彼の病が癒されることを神様に祈りましたが、それは聞き届けられませんでした。しかし、負け惜しみではなく、クリスチャンの歩みはこの世だけで終わるものではありません。神様には私たちに今わからない御心があるのです。私たちの死は偶然とか、むやみやたらにやってくるものではありません。「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」とあります。1アサリオンはもっとも小さな貨幣の単位です。日本で言えば10円ぐらいでしょう。ここでは2羽で1アサリオンです。4羽で2アサリオンなのですが1羽はおまけです。そのおまけの1羽でも神様は忘れていないというのです。まして「多くの雀よりまさっている」私たちが、神様の御旨とは関係なく死ぬことはありません。
兄弟はK姉妹が私たちの教会にいたときには信仰を持つことはありませんでしたが、私たちと親しくお交わりをいただき、その後、かの地で信仰を持たれました。今は主の御手の中に抱かれて憩われていることでしょう。
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。へブル11:13~16
クリスチャンはこの世で神とともに生き、かの世で神とともに生きます。本当は早く神の国に行きたいぐらいなのです。それでもこの世で生きる限りは、祈りをもって神に答えを求めます。それは時に答えられ、時には答えられません。しかし、答えられたとしてもそれは一時的であり、いつかは神の国に行くのです。キリスト教信仰とはこの世だけで神の答えを求めるものではないのです。
私たちが行くところについて、聖書は少しだけ情報を与えています。それはとてもこの世の言葉では表せない場所なのでかなり抽象的な言葉になっています。
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。へブル12:22~24&12:28
これが私たちの目指すゴールです。想像を絶するところなのですが、その前に、ゴールを知っているということが非常に重要です。なぜならこの世の人々はゴールを知らないで走っているからです。ちょっと考えてみてください。たくさんの人がマラソンで走っているとしましょう。ところが誰もゴールを知らないのです。隣の人に「君、ゴールはどこだろう」と聞いても「さあ、わからない、みんなが走っているから着いていけばいいんじゃあないか」と答えるばかりです。ゴールを知らない競争は無駄です。人生のゴールを知らないことは悲惨です。全てが空しいのです。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。Tコリント9:24〜25
昔のオリンピックの優勝者にはオリーブの枝で作った冠が与えられました。それだけでした。それは2・3日で枯れてしまいました。朽ちる冠だったのです。そんな冠でさえ、みんなは必死で訓練して走るのです。まして永遠に続く栄光の冠のために、私たちは自分を訓練したいものです。高橋尚子さんが、誰もがうらやむオリンピックの金メダルをとった後に何を目標にするのでしょうか。次ぎのオリンピック、次のオリンピック……本当のゴールを知らないまま。
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。Tコリント15:46〜49
私たちは土から作られたアダムの子孫です。しかし、イエスにつくものは御霊の人とされます。今はまだ土の体ですが、死んで後に瞬く間に一瞬の内に新しい人に変えられて天国に住むものとなります。
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。1コリント15:51
そんな調子のいいことがあるものか、と言われそうです。実際、前にある人と話したとき、彼は天国も地獄あるわけがないと言いました。それで私は聞きました、あなたは天国も地獄もないとどうしていえるのですが? 無いということを確認できたのですか? 少なくともあなたに言えることは、有るかもしれないし、無いかもしれないではないのですか? これはどう見ても50、50でしょう。すると彼はそうだと納得しました。50%という確率は決して少ないものではないのです。
私は思います、このような教えが仮に嘘だったとしても、なんと美しい嘘でしょうか。そしてこのような嘘なら私は信じたい。そしてこれはイエスという人が命がけで伝えたことですから、真実であるに違いなのです。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。Uコリント4:16〜5:4
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
人間は見えるものだけではないとうすうすは感じているのです。でなければこれほど多くの宗教があるはずがありません。しかし、日常の生活では見えるものだけを追い求めるものです。それは一時的であり、はかなく消えてしまうあわ粒のようなものです。今は目には見えないけれど、やがて私たちが見る神の国と神ご自身こそ目を注ぎ続ける価値があるのです。それは永遠に続く価値あるものです。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。」
K兄弟の地上の幕屋はこわれました。それは幕屋、テント、仮小屋、粗末な掘っ立て小屋だと聖書は言います。そして神の下さる新しい住まいは建物、本建築、お屋敷です。私は想像もつかないのですが、新しい体は今の体より相当すばらしいものだと思います。K兄弟は今すでにその新しい体で主の御前にいることでしょう。うらやましいです。
私たちも間もなく変えられて新しい建物に住むでしょう。その日までしばらくのお別れです。