2003・2・2  小石 泉

コラム
(都合により今週の説教はお休みします)


外国人の横綱
 モンゴル出身の朝青龍が横綱になった。そして明治神宮で奉納の土俵入りをしたという。私は腹を抱えて笑いたい思いである。なんで外国人が明治天皇を神として祭っている宮で奉納、捧げものの儀式をするのだ?
 相撲と神道とは切っても切れない関係にある。昔はいわゆる「場所」毎に神官がきよめを行い、神官の許しがあって場所を開くことが出来た。(今でもそうかな?)もともと相撲は単なるスポーツではなく、神社の宗教儀式なのである。
実は今でも横綱は九州の神官の家族の許可がなければ正式には認められないのである。新聞にもテレビにも出ないが、相撲協会から、その家族に使者が行って報告と許可をもらっているはずである。今場所の優勝は5階級のうち4階級までが外国人だった。これからもウランバートル出身だのメキシコシティ出身だのという力士が横綱になったら、彼らはどんな思いで、明治神宮で土俵入りをするのだろう。
要するに、もうそういう相撲の体質そのものが崩壊し始めているのである。「日本的な」もの、山本七平氏の言う「日本教」の限界がそこまで来ているのだ。
私はいつも思う、日本の宗教というとき、その日本がなくなったらその神々はどこに行くのだろう。日本が外国に占領されて、それが例えば北朝鮮のような情け容赦もない国だった場合、日本の神様はどうなるのだろう。言うのも恐ろしいが、例えばの話、京都が原水爆で焼け野原になったら、あの膨大な神社仏閣の神々は焼け出されて路頭にさまようのか。怪しげな霊媒だったエドガー・ケーシーの予言のように、日本がそっくり海の底に沈んだら、日本の八百万の神々は溺れ死ぬのか? だから、神というものは国や地域や建物や偶像、すなわち天地万物に依存していてはならないのである。その反対に、神というものは天地万物を創造しなければならないのである。そんな簡単なことがどうして判らないのかねえ。