メッセージ 2003・1・26 小 石 泉
何もしない罪
今日はよく知られていて、長い箇所を学びます。
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。マタイ25:31〜46
ここはよく取り上げられる箇所なのですが、よく考えるとなかなか難しいところです。この王は明らかにイエス様をあらわしています。ですからイエス様が再び来られたときの出来事なのでしょう。集められたのは「すべての国々の民」です。そして「私の兄弟」といわれる人々への取り扱いで裁かれるのです。ですからこれはクリスチャンに対する態度によって、あるものは「御国を継ぎ」あるものは「永遠の火」に入れられます。これはイエス様の十字架のあがないとは直接に関係ないという意味で非常に特異な内容です。
さてしかし、今日はそういう神学論ではなく、単純に考えましょう。前者は自分たちがした良い行いを覚えていず、後者は自分がしなかった良い行いを覚えていません。これは案外そんなものではないかと思います。ここでは特に後者について考えます。
後者に向けられたイエス様の言葉は非常に厳しいものです。
「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
これ以上厳しい裁きはあるでしょうか。それでは一体、この人々は何をしたというのでしょうか。彼らはどんな罪を行い、どんな悪を働いたのでしょうか。彼らは「この最も小さい者たちのひとりにしなかった」ことで裁かれているのです。彼らが裁かれたのは“悪を行ったから”ではなく“善を行わなかったから”なのです。ここに注意してください。私たちは悪を行い、罪を行うことが神に裁かれることはよく知っています。しかし、善を行わないことがそんなにも重大な罪だとは思わないものです。聖書はこう言っています。
人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。ヤコブ4:17
(口語訳です。新改訳では「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」となっている。)
もう一箇所、よく似た御言葉を学びましょう。
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」ルカ10:29〜37
ここは実にわかりやすい箇所です。要するに「関わり合いになりたくない」ということなのです。強盗が悪いものだということはいまさら言うまでもないことです。問題はイエス様の痛烈な皮肉です。強盗に襲われ半死半生の怪我人の前に現れたのが祭司とレビ人です。彼らはイスラエルの宗教的な指導者であり、善を行うはずの人々でした。しかし、イエス様は彼らの偽善を厳しく裁いています。実際、宗教者は偽善に陥りやすいものです。この場合、強盗に襲われた人を見た祭司とレビ人は「ああ、関わらないようにしよう、何かことが起きたら面倒だ」と見て見ぬふりをして通り過ぎたのです。
対称的にイエス様があげたのがサマリヤ人でした。サマリヤ人はユダヤ人と異邦人の混血で、穢れたものとしてユダヤ人からは特に嫌われていました。日本の部落民というような位置です。こういう風にいわれのない差別を受けている人は弱いものに優しいものです。
私たち日本人は狭い島国に生まれた関係で、人との関わりに非常に敏感です。親しいものの間では極端に親密ですが、ちょっと無関係の人には冷たいか、関わらないようにします。 ですから世界で地震や戦争など何かあったとき、欧米の人々はすぐに駆けつけますが、日本からはなかなか行きません。そういう体質はクリスチャンになってからでもなかなか抜けません。私たちは善を行うのにもっと積極的でなければなりません。
前の箇所でイエス様は善を行わなかった人に対して、最高の裁きをしていることを思い出してください。とりわけクリスチャンに対しての行為が問題なのです。それはその後のローマの時代にクリスチャンの大迫害があったときに、現実のものとなったはずです。
さて、私は今、友人のクリスチャン、フリッツ・スプリングマイヤー兄弟の裁判の証人となることを期待されています。彼は今、まったく無実の銀行強盗の罪で裁判を受けています。それは5年前に彼が日本での講演会に招かれたときの費用の捻出のために行ったというのです。ところがその講演会は私とある方が主催したもので、費用のすべては私たちが払い、それどころか講演の謝礼まで払っているのです。どうしてそんなことになるのかお話すれば長くなるので省略しますが、この世ではこういうこともあるのです。
今、私は彼の弁護のために渡米しようとしています。いつかある日、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」とイエス様に言われたとき、私は羊として主の右にいたいのです。たとえこの世でどんな扱いを受けるにしても。私たちは「わたし」とおっしゃる方だけを見つめます。
愛する兄弟姉妹、善を行うのに勇気を持ちましょう。見て見ぬふりはいけません。ただし、出来ることはしなければなりませんが、出来ないことを無理してもいけません。どちらにしても、私たちは自由なのです。