メッセージ     2003・1・ 12            小 石  泉 

人の命は誰のものか


 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。創世記2:7〜8

 神様は土のちりで人を造ったとあります。先日、白内障の手術をしたとき、つくづく人間の肉体の精妙さを思いました。なんと見事な造形でしょうか。どのように神様は土を形作ったのでしょうか。粘土から人間はさまざまな器を作ります。最近ではセラミックで精密な部品も作ります。人間の遺伝子DNAは非常に培養が難しく、水に入れても、何に入れてもばらばらに分解してしまうそうです。ところが、あるときユダヤ人の学者がこの聖書の記事からヒントを得て、粘土の中で培養したところ成功したと言う話を聞いたことがあります。この土の形に神様は息を吹き込まれた時に人間は生きるものとなったのです。
 へブル語で息はルアッハと言いますが、それは霊と言う意味でもあります。特に神の息は人間のような単なる空気の呼吸ではありません、それは霊なのです。人間は神の霊を吹き込まれて生きるものとなりました。この霊を聖霊と考えてはならないと思います。命を与える霊、人間の命となる霊です。人間には霊があります。それは神の息なのです。

 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」2:15〜17

 「あなたは必ず死ぬ」。この必ず死ぬと言う言葉は非常に強い言葉で「死にに死ぬ」と言うような意味だそうです。最初、人間は死なないものだったのです。しかし、罪の結果死ぬものとなりました。わたしのよわいは夕暮の日影のようです。わたしは草のようにしおれました。詩篇102:11

 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。103:15口語訳

 この悲観的な言葉は日本古来の文章の中にも同じようなものがあります。人は遅かれ早かれ死ぬものです。どんな強い人でも死には勝てません。それは人には罪があるからです。

 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。ローマ6:23

 罪の報酬は死、それも地上での肉体の死だけではなく、霊的な命、神の子となる特権、永遠の命も失ってしまったのです。もっとも、最初の命は、地上における死なない命であって、新約聖書の言う、永遠の命とはちょっと違うような気がします。新約聖書の永遠の命は神の国における、霊的な命です。アダムとエバはそれも受け取るはずだったのです。

 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ永遠に生きないように。」創世記3:22

 人が罪のままで永遠に地上で生きることは困ったことです。それはたった100年に満たない平均寿命の今の人間でさえこのように災いな世界を作っていることからも判ります。

 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」詩篇90:1〜3

 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。口語訳


 人の命は神の物であって自分の物ではありません。ですから自分で自分の命を終わらせることは神への重大な犯罪です。神様は自由に人を造り、人を帰らせます。それは横暴ではないかという人もいるかもしれません。そのために神様はなかなか人間の問題に介入しないのです。自発的に自分を神様に明渡した人にだけ、神様はそっと介入されます。そのきっかけの最大のものは祈りです。祈りはまず第一に神様へ自分の主権を明渡すことから始まらなければなりません。

 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ヨハネ3:1〜8

 キリストから頂く新しい命はアダムとエバの命とは違って水と御霊から生まれて与えられるのです。(口語訳聖書は御霊とは訳していません。ただ霊です。これはギリシャ語の原文が聖霊も人間の霊も同じ言葉プニューマテと書いてあることが多いからです。特別に「聖なる霊」というハギアイプニューマテが使われることもありますが、一般には分けにくいのです。そのため翻訳者の主観で霊とか御霊と訳されます。これは難しい問題です。)
水とはバプテスマのヨハネから類推して悔い改めを意味しています。悔い改めとは、胸をたたいて嘆き悲しむことではなく、方向転換をするということです。
 太陽に背を向けると自分の影しか見えません。多くの場合人はその影に向かって嘆き悲しみます。どうしてこうなんだろう。なぜ自分はこんなに惨めなんだろう。方向転換が必要なのです。太陽に向かって御覧なさい。もう自分の影は見えません。今までの経験から言って人は自分を見つめているとき自分を失います。自分からは何も良いものは出てこないのです。ただ神に向かって歩み、われを忘れるとき良い道が開かれて行きます。悔い改め、方向転換をして神だけを見つめて歩むとき、聖霊によって人は新しく生まれるのです。

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Uコリント5:17

 アダムとエバが見失った永遠の命は、キリストによって新しく生まれる人に宿ります。その人は肉の命も霊の命に飲み込まれてしまいます。まだいくらかは残存している肉の問題はあるでしょうが、根本的な権利として、神の子、神の国の住民、霊の命の体が与えられるのです。人の命は今この命でさえ神のものであり、これからの新しい命も神のものです。聖霊を受けたあなたは神の息を新しく吹き込まれたのです。本当の意味で生きたものとなったのです。神の国につながる新しい命を受け取ったのです。