メッセージ    2003・1・5      小 石  泉 

種を蒔こう


さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。ルカ8:4〜8

 今年は改めて福音の種まきをしましょう。上の話はあまりにも有名ですが、30年も伝道してくると、この言葉は本当にその通りだと実感します。しかし、まだ当時の人々にとってはこの種と言うものが理解できなかったようです。そこでイエス様はこのたとえをさらに判りやすく説明してくださいました。

さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。8:9〜12

 神を信じて救われてもたちまち「悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです」。何度も何度もそういうことを見てきました。やっと救われてもいつの間にか教会を去ってしまう。そんな悲しい光景を見てきました。「信じて救われることのないように」悪魔は働くのです。特に日本のように偶像崇拝の国では悪魔は地縁や人情、習慣を通して非常に働きやすいようです。神社仏閣への初詣に始まり、年中行事のお祭り、お宮参り、七五三、結婚式、お葬式など無数にあります。また、次のようなこともあります。

岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。8:13

 若い人の場合、信じるのも早いですが、その後にいろいろな人生経験をします。会社、恋愛、結婚など新しい経験が次々とやってくるといつの間にか信仰は片隅に追いやられます。今は無いけれど迫害もどれだけ耐えられるか。迫害と言う形でなくても、みんなと違う信仰を持つと言うことは時にはつらい経験です。さらに、

いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。8:14

 世の中には苦しいこともありますが、楽しいこともたくさんあります。どちらにしても信仰を妨げることがあります。

しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。9:15

 説明を要しない、判りやすいところです。注意したいのは、イエス様は私たちに教えておられるのであって、断罪しているのではありません。こういうこともあるから気をつけなさいと言っておられるのです。
 この御言葉は「種」について学ぶと一層判りやすくなります。ここで「種まく人」というのは第一にイエス様ご自身です。イエス様はこの地上に来られて福音、神様からの救いの言葉を伝えました。そしてそれを弟子たちと私たちに託されました。ですから私たちが次の種まき人です。英語ではSOWERと言います。トムソーヤーのソーヤーです。

 さて人間の中で最初に種を蒔いたのは誰でしょうか。神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。創世記2:15

 アダムさんとエバさんはエデンの園で何もしないで遊んでいたのではありません。確かに手の届くところに何でも食べるものはあったのでしょうが、神さまは二人に仕事を与えました。彼らはエデンで農業をしました。「耕させ」とある以上そこに種を蒔いたことは明らかです。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。新改訳 詩篇97:11

光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。口語訳 

Light is sown for the righteous, And gladness for the upright in heart. KJV


これは新改訳と口語訳で随分訳し方が違います。新改訳の種のようには原文には無いのですが、キング・ジェームス・バージョンでは、やはりSOWNとあり蒔くと言う言葉が使われていますから原文もそういう意味があるのでしょう。これは新改訳の名訳だと思います。神による光、キリストの光(ヨハネ1:9)は私たちのために種のように心に蒔かれているのです。光はちょっとでも隙間があれば外に現れ出るものです。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。詩篇126:5〜6

 時には種は涙と共に蒔くものです。世界の始まりから今に至るまで、一年の休みも無く(イスラエル・ユダヤは別として)種は蒔かれてきました。戦争の中でも不幸の中でも農夫は種を蒔きつづけて来たのです。そしてキリストの福音も世界の情勢に関わらず、蒔き続けられてきました。それは人が救われる喜びがあるからです。

朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。伝道の書11:6

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。Uテモテ4:2

 この二つは良く似た言葉です。私たちは案外、人間的な判断で、この人に言っても判るかなどと考え躊躇したりしますが、このように聖書は人間的な思いでなくただ福音を蒔きなさいと教えています。

見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。アモス9:13 新改訳

主は言われる、「見よ、このような時が来る。その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。もろもろの山にはうまい酒がしたたり、もろもろの丘は溶けて流れる。口語訳


 ここ口語訳でないと意味が判りません。要するに「種を蒔くとすぐに実るようなときが来る」と言う意味なのです。いわゆるリバイバルでしょうか。忠実に蒔いていれば、いつかそんなときが来ると言う約束です。感謝です。(それにしても新改訳が良く使う・・主の御告げ・・と言う訳はいただけません。文章になっていません。)

種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。ハガイ2:19 新改訳

この箇所は個人的には口語訳が好きです。

種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える。口語訳

 神さまはまだ種が納屋にある内から恵を与えると約束されました。ですから、勇み立って種を蒔きに行きましょう。収穫を束のように携えて帰ってきましょう。