メッセージ 2002・12・29 小 石 泉
使 命
神様は時々ある特定の使命を特定の人にゆだねます。それをゆだねられた人は、戸惑い、あわてます。なぜ自分がそんな使命に選ばれたのか、どうしてもっとふさわしい人でなかったのか。そして時にはその使命を重荷に感じ、出来れば自分でなく誰か他の人に振り当ててもらいたいと祈ります。場合によっては何度も何度も。
多くの場合、そのような使命の対象は多くの人は気がついていないことで、無関心であったり、あるいは人々の喜んでいることに水を差したり、反対の言葉であったりしますから、疎んじられ、邪魔にされ、疑われ、憎まれます。あらゆる罵詈雑言の嵐の中を通らなければならないこともあります。モーセもイザヤもエレミヤもパウロもマルチン・ルターもそうでした。私はそんな偉い方々とは程遠いものであり、全くそのような使命にはふさわしくない者ですが、なぜか今、よく似た環境にいます。私は出来ればそのような立場には立ちたくなかったので、出来るだけ遠いところで、あまり目立たないようにしていました。しかし、とうとう最近になって鼻輪で引きずられる牛のように引きずり出されています。ただ、私は自分の使命が全く正しいことで、それが神からの使命であることは確信しています。ですから私に出来ることはただ神さまに忠実であることでした。
あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。詩篇123:1
使命を受けた者はこの詩篇のように奴隷です。ただご主人の手の動きだけを注視しています。何しろ自分から求めて始めたことではなかったのです。いつの間にかこんなことになっていたのです。奴隷はご主人以外のどんな人の言うことも聞いてはなりません。ご主人が命じられたことだけをしなければならず、すればいいのです。
「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」124:1〜5
この詩篇と状況は似ています。使命を受けた者は、多くの場合ただ一人です。周りの反対者は数百万人です。「人々が私に逆らって立ち上がったとき、そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
しかし、使命を受けた者は神に味方になってくれと懇願しません。なぜなら彼らは自分のためにこの仕事をしているのではなく、神に命じられてしているのです。使命とはそういうものです。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。127:1
もし、これが神様からの使命でなく、使命を受けた者の思い違いなら、彼らは空しいのです。全く何の価値もありません。彼らは単なる夢想家で、大法螺ふきです。それでも構いません。他にどんな道もなかったのです。
すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。ゼカリヤ4:6
大法螺のついでに言えば、これらの全ては神の霊に導かれているのです。そうでなければ彼らは災いです。だれが何と言おうと、このことに関してだけはそうです。
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。Tコリント2:10〜15
そこまで言うか? そうですほとんどビョウキです。しかし、もう一度言いますが使命とはそういうものなのです。どうして神様はこんな者を選ばれるのでしょう。それは、
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。Tコリント1:17〜28
というわけです。
使命を受けたものは命懸けです。それが全てです。たとえ世界中がNOと言っても、使命を受けた者は神様だけを見つめます。時にはそういう生き方もあるのです。