2002・12・22  小 石 泉牧師

苦しみのマリヤ


(これは1999年のクリスマスメッセージを再編集したものです。)

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」ルカ1:26〜38


世界にこれほど美しい物語があるでしょうか。マリヤの場合は聖霊により神の子を宿したのですが、全ての女性はこのように、ある日、自分の身に新しい命が宿ると言う神聖な体験をします。この時、マリヤは15、6歳のうら若き乙女でした。彼女はすでにヨセフさんと婚約していましたがまだ夫婦の契りは結んでいませんでした。しかし、法的には夫婦の資格がありました。
しかし、よく考えてください、マリヤにとってこれはどれほど驚くことだったでしょうか。戸惑い、不安。場合によっては街の広場に引き出され、ふしだらな女として石打の刑で死ぬかもしれないのです。「お言葉通りこの身になりますように」という返事は大変な決心だったのです。そしてこの少女の同意によって神様は御子を世に遣わすことが出来ました。人間の中にはこのように神の働きに決定的な役割を果たす人々がいるのです。これはもちろん夫ヨセフにも言えることです。
事実、後年マリヤは不義の女と言われています。ユダヤではその子を通常父の名前で「ヨセフの子」と呼ぶのですが、イエス様は「マリヤの子」と言われています。(マルコ6:3ただしヨセフが早く死んだのでそう言ったのかもしれません)

また「彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」ヨハネ8:41

と言ったりしたのはマリヤが不義の子を産んだと言ううわさがすでに当時からあったことを意味しています。

「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』」ルカ1:39〜45

天使の告知を聞いたマリヤがそれを両親に告げただろうかといつも私は思います。一体どうやって両親に説明できるしょうか。「お父さんお母さん、昨夜、天使が来て私が身ごもったと語られました。」「そうか、マリヤそれは良かったおめでとう」と言う両親がいたとしたらそれこそ奇跡です。また、いいなずけのヨセフさんにはどう言ったらいいのでしょうか。聖書はマリヤの両親については全く沈黙しています。ヨセフさんについてはやはり相当悩んだことがマタイの福音書に書かれています。マリヤは一つの選択をしました。それはガブリエルが言った親戚のエリサベツさんのところに行くことでした。私は恐らくマリヤは両親には何も告げずに旅立ったのだと思います。「急いだ」と言う言葉にマリヤの心情を察することが出来ます。マリヤの住むナザレからエリサベツの住む山地にあるユダの町ヘブロンまでは約120キロほどありますから、15、6歳の少女が旅するには遠い距離でした。おそらく誰かが一緒に行ったのでしょう。
マリヤさんがエリサベツのところに行ったのにはもう一つの理由があります。ユダヤでは女性が身の潔白を証明する方法がありました。それは祭司によってのろいの水を飲まされるのです。その女性が罪を犯していればその水は害がありませんが、犯していれば腹がふくれます。(民数記5章参照)ですからおじさんのザカリヤさんならマリヤの潔白を証明してくれるはずです。道すがらマリヤの思いはどんなだったでしょうか。どうやって説明すればいいのか。判ってもらえるのだろうか。
しかし、心配は無用でした。マリヤがザカリヤの家に着くや否や、まだ何も説明しないうちにエリサベツのおなかの赤ちゃんが踊り、エリサベツは大声でマリヤを祝福したのです。
こうして神の人類の救済と言う大事業が始まりました。私たちはその大きな働きのために若き乙女の決断と忍耐があったことを忘れてはなりません。マリヤは生涯、公にはその潔白を証明することは出来ませんでした。私はそれを思うと涙が出そうになります。私たちはこれほど大きな使命を果たすことができるでしょうか。いくいらでも現在の環境に不満や不平を並べ立てていないでしょうか。マリヤのように決して弁護できない立場にじっと耐えて、生涯をたどることが出来るでしょうか。私は苦しいときマリヤを思います。彼女のような雄雄しい信仰を持ちたいものです。  
神の働きが、こうして、神のために自分を捨てる人々の忍耐と努力によって進められて行くとは何とすばらしいことでしょうか。このようなはしため、このようなしもべの働きを神様は喜ばれるのです。最後にマリヤの賛歌マグニフィカートを読みましょう。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」1:46〜55