メッセージ 2002・12・8 小 石 泉 牧師
命 懸 け
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。マタイ16:24〜25
キリスト教に入るとき、私たちが真っ先に聞く言葉は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28 でしょう。そして「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4 と励まされます。また「神は愛です。」というように私達はこのような美しい言葉で保障を得ています。
しかし、一方で上の言葉のような厳しい言葉もあるのです。「自分を捨て、自分の十字架を負い。」十字架とは死を意味しています。イエス様は自分を信じるなら、命がけで信じなさいと言っておられます。最近はこういう言葉はあまり好まれないのです。甘い、やさしい言葉だけが溢れ流れています。しかし、信仰はファッションではありません。それは人生の片隅にある、生きるための知恵とか上手な生き方ではなく、人生の中心であり、命そのものを左右するものなのです。
わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。エレミヤ30:21
この言葉の通りに使徒たちはほとんど全てキリストのために殉教しました。彼らは神のために命を懸けたのです。そして歴史上、数え切れない人々が信仰に命を懸けました。
イエス様は「受けるより与えるほうが幸いです」と言われましたが、同じように信仰の成長も神から受けるだけよりも、神のために何事かをなすことの方が幸いであり、一歩進んだ、上級者の信仰なのです。
私の熱心は私を滅ぼし尽くしてしまいました。私の敵があなたのことばを忘れているからです。詩篇119:139
イエス様が宮を清めたとき弟子たちはこの言葉を思い出しました。私たちはどうでしょうか。神を思う熱心で自分を滅ぼすでしょうか。それとも自分は安全圏に置いて、遠いところから眺めているのでしょうか。
私のことを少し語らせてください。私は19歳のとき「お前も私のために働きなさい」という神からの声を聞きました。それはあまりにもとっぴで、私は問題にならないと思いました。私はこのような仕事にふさわしいものではないし、自分のやりたいことがありました。貧しい家庭に生まれ育ったので金持ちになりたかったし、政治家になって社会を良くしようとも思っていました。しかし、それから6年間、私の頭からその声は去りませんでした。ついに25歳のときに大好きだった職場を辞めて神学校に入りました。それはむしろ不承不承、後ろ向きの献身でした。それから37年間、四苦八苦しながら勤めてきました。あまりにも小さな成果。あまりにもみすぼらしい自分。しかし、唯一つ、神のために命懸けでした。それだけは本当です。
もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。ルカ9:26
私は本当に自分が何かできたとは思いません。しかし、イエス様のために働くことを恥とは思わなかったということだけは言えます。時々、あまりにも小さな成果に、バプテスマのヨハネのように「これで良かったのかな」と思うこともあります。でも思います、ヨハネは晩年、牢獄に入れられ、ヘロデの妻ヘロデヤの娘サロメの踊りの代償として首を切られて死にました。人間的に言えば何という惨めな生涯。しかし、イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」マタイ11:11 と言われたのです。パウロ先生の生涯も同じようなものです。
彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。コリントU11:23〜27
40に一つ足りない鞭。40打てば死ぬと言われた鞭打ちの刑。太い鞭の先には金属の破片が取り付けられています。39回打てば背中は破れ、骨まで見えたと言います。そのような刑を5回も受けた。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く」。まだまだ私の苦労などものの数ではないし、第一私の苦労など自分自身の不徳のいたすところです。しかし、私が言いたいのは、良いことばかりが信仰の結果ではないということです。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。
ヨハネ16:33
この世の人々は行き先を知らないで電車に乗っているようなものです。それは実に奇妙な光景です。満員の電車の乗客の誰一人としてその電車の行き先を知らないのです。「この電車はどこに行くのですか」と誰に聞いても「さあ、わかりません」と答えるのです。「ではなぜあなたは乗っているのですか」と聞くと「いつの間にか乗っていたし、みんな知らないのですからそれで良いでしょう」と言うのです。
私達は知っています。私達は自分がどこに向かっているか、目的地はどこかを知っているのです。ですから安心してゆだねています。命を懸けています。
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」ダニエル3:16〜18
ネブカデネザル王が建てた金の像を拝まないものは火の炉で焼かれるというお触れに対して、ダニエルの3人の友人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはこのように答えました。「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、」もしそうでなくても。神が助けてくれなくても、それは神ご自身のうちに別のご計画があるのです。私達は神以外の者を拝むことはしません。そして彼らは通常の7倍も熱くされた炉に投げ入れられ、無事に生還しました。しかし、彼らは無事でなくてもその結果に満足したはずです。これが信仰に命を懸けるということです。
そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」マタイ8:19〜22
キリストに仕える道は時にはホームレス、時には親不孝。もちろんわざわざそうしろというのではなく、イエス様がそうせよと命じるならそういうときもあるということです。これは平和を60年以上謳歌してきた今の日本人やアメリカ人には出来にくいことだと思います。しかし、北朝鮮、中国では今でも現実です。
イエズス会の会則には「キリストと管主の命令には、杖のように歩き、死人のように運ばれても構いません」とあるそうです。(本当かどうかは知りませんが)杖は自分で歩くことは出来ません。自分を持つ人の意思の通りに歩きます。死人は自分がどこに運ばれても文句は言いません。極端だと思われるかもしれませんが、神に仕える道は究極のところこういうことです。それは命懸けなのです。それは正に命を懸ける価値があることなのです。イエス様はそういっておられます。