メッセージ 2002・12・01 小 石 泉 牧師
カインとアベル
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。創世記4:1〜5(新改訳)
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。4:4〜5(口語訳)
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。4:4〜5(新共同訳)
カインとアベルの物語は良く知られていますが、初めて新改訳聖書の訳を読んだとき、思わず吹き出しそうになったことを覚えています。この翻訳者はこの箇所の意味が判っていないのです。口語訳、新共同訳共に4節は簡単に「アベルは肥えた羊を持ってきた」と書いています。口語訳は「ういごと肥えたもの」と訳していますが、これだと複数になりますので新共同訳が一番適切だと思います。英語のキング・ジェイムス・バージョンもほぼその通りです。ところが新改訳は「それも最良のものを、それも自分自身で」と余計な形容詞をつけています。これはアベルの捧げものがカインのものより優れているということを何とか表現しようとしたのでしょう。しかし、ここはそういう意味ではないのです。大きなお世話、話にならない困った訳です。
まず、「ある時期になって」とありますがこれは非常に重要な言葉です。それはカインとアベルが、父アダムから独立して、一人前のものとなり、自分で礼拝を司るものとなったことを意味しています。恐らく結婚して一家の主となったのでしょう。だから彼らは父の礼拝の霊的な保護の傘の下を出て、自分が一家の霊的な主人となったことを意味しているのです。
さて、それまでカインとアベルは長年の間、父アダムの礼拝に出席し、そのやり方を学んできたはずです。さらに恐らくアダムは正しい礼拝の方法を何度も彼らに教えていたはずです。なぜならこれは人類の最初の家族にとって、最も重要な仕事であったからです。
あの、エデンの園で彼らが罪を犯したとき、神は羊(恐らく)を殺して皮の衣を作って着せてくださったのです。アダムとエバは罪を犯したとき「恥ずかしい」と思ったのです。その恥を覆うために二匹の羊の命が失われ、血が流されました。それ以来、神への礼拝には血が欠かせないものとなりました。旧約聖書の出エジプト記とレビ記には徹底的に血による罪のあがないが記されています。モーセの幕屋はそれこそ血まみれの礼拝所です。それは神に近づくためには先ず罪の贖いがなされなければならないからです。罪のままでは神に近づくことは出来ないのです。
なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。レビ記17:11
カインとアベルはこのことを先ず第一に教えられたはずです。なぜならこれなくしては神に近づくことさえ許されなかったからです。カインはそれを知りながら、あえて自分の努力の成果である地の作物を持ってきたのです。アベルは教えられたことに忠実でした。カインは農夫になったとはいえ、羊をアベルから買うことも出来たし、いくら農夫でも家に一匹も羊がいないということは考えられません。
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。ヘブル9:22
罪があるままで、すなわち、贖いの血がないままで神に近づこうとする行為を宗教と呼ぶのだと私は思います。カインの捧げものはこの世の宗教全般の姿です。神社や寺院に行くと大きな字で誰がいくら捧げた、この鳥居は誰の寄進であると書かれています。それはカインのように自分の功績を誇る行為です。そのために宗教は自己満足と虚栄の場となるのです。これは実に醜い、神の嫌悪される事柄です。
さらに殺される羊は言うまでもなくイエス・キリストを表わしています。アダムとエバの裸を覆った羊の皮はイエス・キリストの十字架の贖いの最も原始的な予言です。血はイエス様の命を表わしています。
すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』レビ記17:14
十字架の上で流されたイエス様の血、それは神の御子の命です。この命によって人の罪は贖われ、罪は許されるのです。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ3:21〜24
カインはこのキリストの義を受けないままで神に近づこうとして拒絶されたのです。しかし、私達はキリストの血によって贖われているなら、何のためらいもなくまた何の功績もなしで神に近づくことが許されているのです。
兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、ヘブル10:19
スタインベックも「エデンの東」の中で、カインの捧げものも神は受け取るべきだったと訴えています。しかし、それは聖書のこの箇所の本当に意味を知らないからです。そして恐らく多くの人々、クリスチャンでさえこの真理を悟っていない人が多いと思います。
さて、私はクリスチャンの家に生まれ、幼いときから聖書を読み、教会に出席し、神につき、キリストにつき学んでいました。19歳のとき東京に出て兄の教会に出席し信仰を学びました。私はキリスト教についてほとんどなんでも知っていました。そして、ある時、大きな大会で(荻窪で開かれたハロルド・ハーマン・・・当時、ハリウッドで有名なディレクターだった・・・という人の大会でした。)信仰の決心をしたのです。しかし、それからが大変でした。私は頭ではキリスト教を理解していたのですが、どうしても心から「救われた!」という確信が持てなかったのです。私は非常に悩みました。何も知らないで判らないなら、それはそれで良いのですが、判っているのに、判らないのですから悩みました。それから何度も決心したり、いろいろな人に聞いたりしましたが、なかなか確信がもてません。
ついにある時、兄の教会を去って自分の寮の近くの教会に出席しました。そしてその教会の夏のキャンプに行きました。そこでも私の悩みは解決しませんでした。私は夜ひとりで、真鶴岬の岩の上で叫んでいました「神様、救ってください!」。しかし、答えはありませんでした。
そのキャンプから帰って、数日後、一人で寮の部屋で本を読んでいると、ある言葉がとげのように引っかかったのです。そこには「イエス様がやってしまった救い」とありました。やってしまった救い? やってしまった? 何で? 何で過去完了形なんだ? 今、僕は救われたいと苦しんでいるのに、やってしまった救い? 終わっているというのか?
間もなく私はその言葉が理解できたのです。「そうか、僕の救いは終わっているのだ。イエス様が2000年前に、十字架の上で僕のために血を流し、贖いを終えてくださったのだ。僕はただそれを受け入れればいいのだ!」私は初めて救いを確信できました。私は救われている。私の救いは2000年前に終わっている。それから私はいつでも神に近づくことが出来るのです。アベルのようにイエス様の血をたよりに。
カインのように自分の努力で神に近づこうとしている人が何と多いことでしょう。あなたも、アベルのように、イエス様の贖いの血を受けて、救われてください。