メッセージ 2002・11・17 小 石 泉 牧師
世界の終わりに備える
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(新改訳)
万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。(口語訳)Tペテロ4:7〜10
「万物の終わりが近づきました。」なんとおごそかな恐るべき言葉でしょうか。ノストラダムスがこけてから、最近ではあまり終末論が叫ばれなくなりましたが、ペテロさんは2000年も前にこのように言っているのです。それについては後から考えましょう。
世の終わりが近づいている、そのような時どう対処したら良いのでしょうか。どこかに逃れる道を探しましょうか、食料を蓄えましょうか。実際にアメリカにはハルマゲドンに備えて巨大なUFOを作っている人々もいます。ハルマゲドンの間地球を離れていて終わったらまた戻ってくるというのです。また、銀行、病院、郵便局もある社会と隔絶した共同体を作っているキリスト教を自称する団体もあります。
しかし、ペテロさんはそんなことは一切話しません。ペテロさんの終末への備えは祈りなさい、愛し合いなさい、もてなし合いなさい、仕え合いなさいです。この世的には意外でしょうが、クリスチャン的には当然といえば当然なのです。私達は世の終わりが来るからといって特別な対処の仕方が必要なわけではありません。私達は神の家族であり、神の愛の中に生きるものだからです。それにしても世界が終わろうとしているとき、最も必要なことがこれほどまでに“内輪”のことだというのは不思議な気がします。
祈りのために「心を整え身を慎みなさい」、「心を確かにし、身を慎んで」祈りなさい。ここに言う祈りとはどんな祈りなのだろうと私は考えました。特別な祈りだろうか。それとも日常的な祈りだろうか。ペテロさんは心を整え、身を慎んで祈れと言っています。日本的にいうなら心を備え、身を引き締めというところでしょうか。
また、互いに熱く愛し合いなさいとあります。
これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。コロサイ3:14(口語訳)
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヨハネ15:13(同)
日本では愛という言葉は、もともと男女の情愛を意味する言葉であったので、キリスト教がこの言葉を使ったときに非常に無理が生じました。むしろ敬うとか寛容になる、他人のために自己を犠牲とするという意味なのです。互いに熱心にです。また、もてなし合い、仕え合うこと、要するにクリスチャン相互の愛と交わりを高めなさいということです。
ああ、そんなことは当然だ、別に特別考えなくてもいいと思われるでしょうか。いいえ、私は現在キリスト教会が向かっている方向とあまりにも違うのにめまいがするほどです。珍しいこと、不思議なこと、すごいことが起こった。笑った、泣いた、倒れた、そんなことばかりが求められています。それはイエス様が荒野でサタンの誘惑に会ったとき、退けたことではなかったですか。そして今の世界もサタンの誘惑のままです。
荒野でサタンはイエス様に石をパンにするように誘惑しました。食欲、貪欲、は今の世界の中心主題です。毎日テレビで紹介されるグルメ番組。大食のコンテスト。もちろんこれはその他の欲望にも当てはまります。さらに宮の頂上から飛び降りるようにという誘惑は、珍しいこと、不思議なことを求めるもので、ハリーポッターを初めとするオカルト的な興味に現れています。占いは隆盛を極めています。さらにサタン礼拝は、特に欧米で恐るべき勢いで広がっています。万物の終わりにはサタンの誘惑も最高に激しいものになりそれはキリスト教会も例外ではありません。
それにしてもペテロさんはなぜ2000年も前に「万物の終わりが近づきました。」などと言ったのでしょうか。たしかにパウロ先生にしても、弟子たちはイエス様の再臨はすぐにあると思っていたようです。そしてその後、ネロを初めとする恐るべき迫害が訪れるのでそのような警告は無駄ではなかったのです。しかし、実はここには預言というものの二重性と呼ばれる特性が表われていると考えられます。
預言者は遠い山脈を見るようにして未来を見せられます。ここで二つの山脈が平行して並んでいる場合を考えてください。預言者には二つの山脈の間の谷間の部分は見えません。ペテロさんもこの場合は預言者です。彼は最初のローマ帝国と最後のローマ帝国が重なって見えたのです。その間に2000年もの時間があるとは思わなかったのです。最後のローマ帝国の滅亡に続く世界の終わりが、最初のローマ帝国と重なって見えたので、万物の終わりが近いと思ったのです。最後のローマ帝国、それは確かに現在建設されつつあります。EU、ヨーロッパ共同体は多くの反対にもかかわらず、強引に推し進められています。その版図は最初のローマ帝国に近づきつつあります。いまこそペテロ先生の言う万物の終わり、世界の終末は近づいているのです。ですから私達は今こそペテロさんの警告を真摯に受け止めなければなりません。祈りと愛ともてなしと仕え合うこと。
続いて具体的な生き方が示されています。
語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。4:11
神の言葉を語る人、奉仕する人、そのまま今の教会に当てはまります。ここは説明を要しないところです。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
ネロの大迫害が迫っていました。「クオ・バ・デス・ドミネ」を読みたいところです。当時のクリスチャンは火のような試練に耐えるように、あらかじめ教えられていたことが判ります。そしてそれは今でも共産圏の国々では起こっているのです。
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。〜19
「人殺し、盗人、悪を行なう者」として苦しみに会わないようにという忠告はよく判りますが、「みだりに他人に干渉する者」というのは聞き捨てならない言葉ではありませんか。クリスチャンは自分の正義感や清潔感で他人をさばくことがあることをペテロさんは良く知っていたのです。ちょっと面白いですね。
「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」そうです。必ずそうなるでしょう。そして神の家の人々は“かろうじて”救われるのです。しかし、「神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」だから、私達は困難な中でもひとりでも多くの人々に福音を伝えなければなりません。
万物の終わりが近づきました。愛し合い、許しあい、仕え合い、祈りましょう。