メッセージ 2002・11・3 小 石 泉 牧師
もし神さまが世界を造らなかったら
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。創世記1:1〜2
聖書の最初の言葉は神の天地創造です。神とは何かというような説明は一切なく、全く当然のこととして神はお働きを始めておられます。ここはいつも不思議に思うのですが、何にもないとあるのですが、水はあったのです。それでいわゆる再創造説が出てきます。何かが起こって天地は荒廃し、もう一度秩序が作られていったというのです。しかし、それもはっきりしません。いずれにせよ初めの初めには何もなかったのです。
何もない。無です。神が創られるまで物質というものは存在しなかったのです。物理学は常に限界にぶつかります。それはどんなに考えても物質がどこから始まったかを説明できないのです。宇宙の始まりはビッグバンだとか、いや、粒子の波があったのだとか言いますが、どう説明しようと物質がどこから、なぜあるようになったのか誰も説明できないのです。無神論者たちは、あの不自由な体で神さまに抵抗し続けたホーキング博士も含めて、何とかして神以外の物質の発生を証明しようと試みましたが無駄でした。
なぜ、「ない」という状態から「ある」という状態が出来たのか。聖書を信じる者には実に簡単な答えがあります。それは神のお名前です。
モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」出エジプト3:13~14
モーセは自分が出合った神様の名前を教えてくださいと頼みました。すると神さまは奇妙な名前を教えました。その名は「ある」というのです。神の名は「存在する」なのです。聖書の原語へブル語ではエヒエ・アシエ・エヒエ、略してヤハウエ、昔の日本語聖書では「在りて有るもの」、英語ではTAM THAT I AM、最近の聖書はもっと簡単にI AMと訳しています。(アメリカにはI AMという教団もあります。)「私はある」というお方、存在を名前とするお方が、物質の存在を引き起こしたのです。I AM、私はある、私だ、私がそれだ。そういえばイエス様もしばしばこの言葉を使われました。
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」ヨハネ4:26
この他、ヨハネによる福音書にはこのTamという言葉がたくさん出てきます。
さて、私たちを取り巻く人々の多くは、神はいない、神が天地を創造したなどということは信じないといいます。しかし、もし神さまが天地を創造しなかったら、そういう人々もいなかったのです。そう考えると何と人間は愚かなものでしょうか。神が天地宇宙を創造しなかったら、「何もなかった」のですから。
なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。コリントT8:5〜6
人間は神さまによって造られました。それなのに何と思い上がっていることでしょう。イエス様は高慢なユダヤ人に次のように言っています。
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。マタイ3:9
石ころからでも作ることが出来る。この言葉は単なるたとえではなく本当のことです。人間は無から作られた宇宙のほんの小さなちりに過ぎません。
彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。イザヤ40:24[口語訳]
人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。詩篇103:15〜16[口語訳]
何だか日本にもこういう文章がありました。「の鐘の声、諸行無常の響きあり、の花の色、勝者必衰のを表わす。流れにひそむうたかたは、かつ消えかつむすびてとどまりたるためしなし」(平家物語)とあるように、すべては、はかない空しいものだと昔の人は歌いました。そこにはただ希望のない虚無しかありません。しかし、聖書はそのはかない人間を神さまは創り、深く愛しておられるのだと言っています。
ところで人間はいつから始まるのでしょうか。
あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。伝道の書11:5[口語訳]
人間に神さまが霊を入れられるとき初めて人間の霊は生まれるのでしょうか。そして霊は永遠不滅ですから、その前にはどうだったのでしょうか。何もなくて、人間が生み出す人間の数だけ霊は増えて行くのでしょうか。これは私にはまだ判らない謎です。ただはっきりしていることは、人間は死んでも居なくなることはないということです。ですから自殺してもいなくならないのです。だからこそ永遠の住みかが問題です。
恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。イザヤ書41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。」[口語訳]
虫けらのヤコブ。虫にひとしいヤコブ。これが人間の本当の姿です。しかし、神さまはこの虫けらに深い関心を持っておられるのです。もともと何にも無かったものです。しかし、神さまは愛のうちに、私たちを作り、非常な関心をもって私たちに近づいてこられます。いつも旧約聖書を読んで思うのですが、神さまはイスラエルの背信、反逆を怒り、激しく叱責されます。それなら捨ててしまえば良いではないか、と思いますがそうはされないのです。いつまでもいつまでも嘆きながら手放さないのです。
だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。(中略)わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:1〜4
不思議ですね。虫けらに等しいばかりではなく、罪に汚れ、悪をなし、神を否定し、反逆する、そのような人間をも、神さまはご自分の御子を十字架にかけるほどに愛してくださり、高価で尊い!!!とおっしゃるのです。
神さまが天地を作られたとき、時間が生まれました。空間というものを測るには時間が一番便利です。実際、星と星の間を測ったり、宇宙空間を測るにはメートルやフィートでは表わせず光の速さで何年と測ります。それを光年と呼んでいますが、大きな距離は時間で測るしか仕方がないのです。宇宙の直径は百億光年といわれますがその外側はどうなっているのでしょうか。そこには時間のない空間が広がっています。時間がないということは果てしがなく、またそれは私たちから考えれば瞬間でもあります。それがパウロ先生の言う第三の天であり、神の世界、霊的世界です。(私は第一は大気圏、第二は宇宙と考えます。)
天地は神によって造られ、神によって保たれています。私たちも同じように神によって造られ、神によって保たれます。だからどう生きれば良いかなんて悩むことはありません。ただ、神を見上げて、日々を感謝して生きることです。