2002・10・20   小 石 泉 牧師

  コラム
(都合により今週の説教はお休みします)

自由の価値

北朝鮮から帰国した方々をテレビで見ていると、24年間も自由を束縛されていて、未だに自由を与えられていないことの悲しさを思います。人間にとって自由というものは何と価値のあるものでしょうか。自由は人間の最も基本的な要素なのです。
エデンの園でアダムとエバは神様から、ある木の実だけは食べてはいけないと命じられました。「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」のです。そして彼らはその木の実を食べ、罪を犯し、エデンを追われました。では、なぜ神さまはそんな木をエデンに植えたのでしょう。植えなければアダムとエバは罪を犯すことも無く、エデンで幸いな日々を送り続けたでしょう。なぜ、神さまはわざわざ罪を生み出すような仕掛けを作ったのでしょう。これは不思議な話です。
この木は人間の自由を表わすものなのです。エデンは美しく何不自由のない楽園でした。神さまと共に生きる人間は幸せでした。しかし、その幸せはある制限の中にありました。それは人間が選んだのではないということです。すべては神さまから一方的に与えられたものでした。
聖書は「神は愛である」と言っています。愛というものは与えるものと受け取るものに絶対的な条件を求めます。それは互いに自由であるということです。どんな小さな制約、強制、束縛があっても愛は成り立ちません。男性が女性を愛して、誘拐し、地下室に閉じ込めて「私は君を愛している、だから君も僕を愛してくれ」と言っても、そこには決して愛は生まれません。同じように「私と結婚してくれなければ自殺します」というのも愛ではなく強制なのです。愛とは、相手が自分を拒絶することが出来る自由の中でだけ成り立つのです。
あの善悪を知る木は神さまが人間に与えた自由でした。神は愛だから、本当の愛を求めたのです。神様は愛の原則に従い、人間に自由を与えました。それは創造された人間が、創造者を拒絶することもできるという完全な自由でした。それが人間の価値でありそれが神の最大のプレゼントでした。人間の自由というものはだれも侵してはならないものです。しかし、サタンのやることは初めから終わりまで自由を奪うことです。特に宗教で人間を束縛することはいけません。肉体的な束縛も程度によっては人間性を失わせますが、宗教またはマインドコントロールによる束縛は簡単に人間が人間であることを失わせます。
しかし、過度の自由の追求は逆に人間性を失わせます。「神は死んだ」と言い、超人思想を唱えたニーチェも最後には発狂し悲惨な最期を遂げました。自由は大切な権利ですが、同時に管理が難しい諸刃の剣です。
愛されている人の腕に抱かれているとき、それを不自由と思う人はいないでしょう。神様と人との本当の関係はそういうものです。しかし、神さまは人間が自分から神さまを求めるまでは決して強制しないのです。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。雅歌2:7

間もなく自由をはきちがえた人間が、極限まで傲慢になって世界を暴虐と残虐で満たすとき、神さまは介入なさるでしょう。もう、かなりな程度でそのようになっています。人間の悲劇は神さまが与えてくださった自由の価値を知らないことです。自由の価値を知ることが真理なのです。

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:3