メッセージ     2002・10・6   小 石 泉 牧師

三つのたとえ話


 マタイによる福音書は構成がとても簡単で、ただ筋を追えばいいという明瞭な文章です。詳しいことは解説書に任せることとして、私が印象に残ったのは非常にたとえ話が多いということでした。それで今日は皆さんに宿題をあげましょう。再来週の日曜日までに、マタイによる福音書の中のたとえ話の数を数えて報告してください。人によってたとえかそうでないか判断が分かれると思いますので、細かい数は分かれると思いますが、とにかく自分がそうだと思ったものを出来れば章節と内容の見出しを書き出して、提出してください。たまにはこんなことも良いでしょう。
 さて、今日はそのたとえ話の最後の三つについて学びます。一つ一つでも十分一回分の説教になるのですが、まとめることによって一層意味が判ると思うのです。引用がかなり長くなるので覚悟してください。この後、イエス様は十字架に向かわれるのです。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持ったが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。25:1〜13

 あまりにも有名なところで、今さら説明を要しないかもしれませんが、自分自身への再確認として考えましょう。この話は実は本当にあることそのままなのだそうです。パレスチナでは結婚の披露宴は花婿の家でするのが普通ですが、花嫁の家でもする場合があり、それは一種の遊びになっているのだそうです。迎えに出る娘たちというのは花嫁の友人たちです。そこに花婿が来るのですが、時にはその時刻を教えないで突然訪れては驚かすのです。娘たちは思い思いに花嫁の家の前で花婿の来るのを待ちますが、夜中になることもあります。そしてランプの灯をつけるのですがそのまま中に入ってランプを灯します。しかし、準備のなかった娘たち眠りこけていたりすると家から閉め出されて恥をかきます。まあ、一種のにぎやかな遊びなのでしょう。
 しかし、イエス様のたとえはそんな簡単なものではありません。ご自身の再臨のことを言っておられるのです。この娘たちは明らかにクリスチャンのことを表わしています。そして備えのないクリスチャンはキリストの再臨に気がつかず、携挙されないという意味なのかもしれません。あるいは最後の審判までキリストと共に過ごすことが出来ないのかもしれません。私にはこれがよく判ります。キリスト教会と言いながら、神の国も救いも贖いも語られないで、靖国神社の問題だの戦争責任だのと、この世のことばかり話している教会のことを耳にします。時々、本当はイエス様を恥じているのですか?と聞きたくなるクリスチャンにも会います。そして霊的に肉的に備えのない自分自身も例外ではないと思います。戸が閉められ「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」といわれたらどうしましょうか。このような戒めも必要です。

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。25:14〜30


 これも有名なところです。ここで特に注意したいのは、この主人が“各々の能力に応じて”富を預けていること、そしてその富が半端な額ではないということです。タラントというのは貨幣の単位ではなく重さです。ここでは恐らく金ですから1タラントは約35キログラムです。また1タラントは約6000デナリに相当します。1デナリは一日の労働賃金に相当しますから、約1万円。そうすると1タラントは6000万円なのです!
 これはキリストが私たちクリスチャンに託した恵の富の大きさを物語っています。そして確かに人間には能力の差があって、それぞれに応じてタラント(タレントの語源)が与えられているものです。その額にも微妙な真実があります。5:3:1ではなく、5:2:1なのです。確かに特別に優れた人というのは飛びぬけていて何をしても上手いというようなことがあります。そして次は半分よりちょっと落ちて・・・2です。実感としてわかりますね。しかし、2の人へのねぎらいの言葉は5の人と同じです。
 それにしてもこのご主人は何と太っ腹な人でしょうか、6000万円が「わずかなもの」とは! しかし、1タラント預けられた人はそうは思えませんでした。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」
何と情けないご主人への評価でしょうか。しかし、覚えてくださいクリスチャンといわれる人でも神さまやイエス様をこのように見ている場合があります。及びもつかない清さと、かなうこともない努力を空しく重ねて、青息吐息、信仰は、厳しく、悲しく、疲れますというクリスチャンもたくさんいます。自分を裁くのは神様にゆだねましょう。そして5タラントの人のように積極的に、与えられている賜物を思い切り使いましょう。

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」25:31〜46

 この箇所は、一般的には誰にも親切にしなさいという意味に使われます。しかし、本当にそんな単純な話なのでしょうか。イエス様が最後に語ったたとえ話がそんなどこにでもある宗教の説話のようなものでしょうか。私の知っている別の解釈では、かなり違います。先ず、ここに登場するグループです。キリストと御使い、そして「すべての国々の民」。この民は羊と山羊とに分けられます。ではその中にキリストの血によって救われたクリスチャンはいるのでしょうか。山羊に分けられた人は“行い”によって「永遠の刑罰に」入るのです。キリストの血は無効だったのでしょうか。
 ここには「わたしの兄弟」と呼ばれている人々がいます。彼らが「すべての国々の民」に 入っているかいないかでこの話は全く変わってきます。入っているなら親切な行いのたとえです。しかし、入っていないなら、十字架の贖い以外の救いです。これは問題です。イエス様が「わたしの兄弟」と呼ぶ人々は弟子たち、すなわちクリスチャンです。クリスチャンは「キリストの花嫁」「キリストの御からだ」「新しいエルサレム」と言われる特別な人々です。キリストは自分の花嫁、体、エルサレムをもう一度裁くのでしょうか。
それともこの「わたしの兄弟」たちはキリストと共に裁きの座にいるのでしょうか。羊に分けられた人はたしかに「永遠のいのち」に入っています。しかし、それはイコール、キリストの花嫁、体でしょうか。それとも救いには別の形、たとえば王国の民とか、家臣のような立場はないのでしょうか。このたとえは主の再臨まで真実は判らないでしょう。