メッセージ 2002・9・22 小 石 泉 牧師
ヨハネによる福音書のアウトライン
1:1〜18 「ことばに」ついてのメッセージ
19〜37 バプテスマのヨハネ
38〜44 ヨハネ、アンデレ、シモン、ピリポの召命
45〜51 ナタナエルの召命
2:1〜12 カナの婚礼
13〜25 宮きよめ
3:1〜15 ニコデモの訪問と新しく生まれること
16〜21 ひとり子についてのメッセージ
22〜36 バプテスマのヨハネとイエス様の対比
4:1〜42 サマリヤの女と生きる水
43〜54 王室の役人の子のいやし
5:1〜18 ベテスダの池の病人のいやし
19〜47 イエス様の自己紹介と論争
6:1〜15 五つのパンと二匹の魚の奇跡
16〜71 命のパンの主張とメッセージ
7:1〜53 宮での論争
8:1〜11 姦淫の女
12〜59 イエス様の起源の論争
9:1〜41 生まれつきの盲人のいやし
10:1〜21 羊の門のメッセージ
22〜42 わざの論争
11:1〜46 ラザロのよみがえり
47〜57 議会の死刑決議
12:1〜11 ナルドの香油
12〜19 エルサレム入城
20〜50 一粒の麦、信じるものへのメッセージ
13:1〜11 弟子の足を洗う
12〜30 ユダへの警告
31〜37 愛のいましめとペテロの主張
14:1〜17:26 決別説教といのり
18:1〜40 逮捕とピラトの庭での裁き
19:1〜42 十字架と埋葬
20:1〜31 復活
21:1〜25 ガリラヤ湖での再会
今日はヨハネによる福音書を全体的に概観してみましょう。こういう読み方も、時には必要なのです。ただし、我ながら実に粗末で不勉強な内容で、大変恥ずかしいです。それでも幾分かは、ヨハネの語りたいことが判ると思います。
アウトラインをたどってみて思うことは、ヨハネによる福音書はサンドイッチのような重構造だということです。深遠な真理の間に非常に具体的な事件や話題が挟まれ、それがさらに深遠な真理を判りやすくしています。私は改めてヨハネの福音書のすごさに圧倒されました。とても語りつくせない、高遠で清潔で美しい書物だと思います。一つ、一つの事件や登場人物の後で、本当にさりげなく驚くべき真理が語られる場合もあり、えー!そんな重大なことをたった一人の人に話すんですか……と言いたくなることもあります。
最初にヨハネはイエス様が神のことばであり、神と共におられ、神であったということを語りました。ここはどんな書物も及ぶことの出来ない深遠な真理であり、語りつくせない神秘を簡潔に述べたものです。これについては何度も語りましたので省略します。
次にバプテスマのヨハネはイエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介しました。意外なことにこの言葉はヨハネだけが言っています。他の福音書は語っていません。
さらに弟子たちの召命で注意したいのは、ヨハネが自分のことを“二人のうちの一人”として名前を明かしていないことです。またナタナエルは12弟子の名前ではバルトロマイとなっていることも注意しましょう。バルとは子、トロマイの子という意味です。彼は自分の秘密、神への礼拝の場所であった“いちじくの木の下”をイエス様に暴露されて直ちにイエス様をメシヤ、神の子と認めました。真摯で誠実な人柄が見えます。
カナでは水をぶどう酒に変え、宮では当時はびこっていた神殿の前の商人たちを追い払いました。彼らは犠牲の動物を法外な値段で売り“不正の富”ローマの貨幣でなく神殿の清められた貨幣だと言って特別な貨幣をこれまた法外な換算率で換えていました。そのマージンは祭司にも払われました。いつの時代でも信仰で儲けようという卑しい人間がいるのですね。「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」という御言葉を弟子たちが思い出すほどイエス様は激しく怒りました。
この後、議会の有力な議員であったニコデモが夜ひそかにイエス様を訪問しました。ここでイエス様は「人は新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」という真理を一人の人に語っています。ニコデモはその後隠れクリスチャンになりました。
さて、この後、ヨハネは偉大な御言葉を書き残しました。それは聖書のすべてを一言で物語ると言ってもいいほどです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:16
これはイエス様がニコデモと話し終えた直後に唐突に現れてきます。このときのヨハネの心を推し量ることは難しいのですが、このように深い真理を言い表すことの出来たのはもちろん聖霊の導きであり、その導きに迷いなく従うことのできたヨハネという人物の清冽な魂のためでしょう。
この後も、例えばサマリヤのヤコブの井戸で出会った罪深い女にも、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」などという真理を惜しげもなく語られ、さらにメシヤが来るという女に「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と宣言されるのです。これも驚きです。本来なら、神殿に立って、数万人、数十万人、数億人の前で宣言すべき言葉です。しかし、人々から後ろ指を指されることが恥ずかしくて朝、水を汲みに来れず、昼間にこそこそと水を汲みに来た一介の女にこんなに重大な宣言をされたのです。
ここでイエス様が言った「わたしがそれだ」と言う言葉はヘブル後に直せば「エヒエ、アシエ、エヒエ」転じてヤハウエ(間違えてエホバ)となる神の名だとも言われます。
総じてヨハネによる福音書には「わたしは・・・だ」英語でI amと言う言い方が良く使われています。それはこの後に現れる「わたしは命のパンである」に始まり「わたしは羊の門である」「わたしは良い牧者である」。たった一人の女性、ラザロの姉妹マルタに対していった驚くべき言葉「わたしはよみがえりであり、いのちである」。世界の誰もが言ったこともなく、言おうと思い浮かぶことさえしない言葉「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」。慈愛に満ちた言葉「わたしはまことのぶどうの木です」などです。これはヨハネが冒頭に書いた「神の子であることば」と連携して、イエス様が何者であるのかを鮮明に表わしています。
この後、イエス様と、かたくななユダヤ人の支配階級との間に深刻な亀裂、議論が起こります。それはラザロのよみがえりの後に決定的となり、議会での死刑判決になるのですが、人間が死からよみがえったという奇跡を見て、殺そうと決めるとは何と頑固で石のような冷たい心でしょうか。自分たちの気に入らない方法、予期せぬスタイルでメシヤが来られたとき、そのメシヤを殺そうと決めたのです。しかし、それが私たちの救いとなったのですから不思議です。神さまは二重三重の救いのシステムを用意しておられたのです。
14章から17章ではイエス様が弟子たちに遺言のように懇切丁寧にご自身の思いを語られます。ここは本当に「めぐみとまことに満ちている」イエス様をとさせる箇所です。何度読んでも感動のないときはありません。
そして十字架。ヨハネは他の弟子のように逃げないでイエス様のそばにそっと居たようです。それも当時の大祭司カヤパがヨハネの親戚筋だったから出来たことなのかもしれません。
その後の復活もヨハネは女たちの次の証人でした。ヨハネはマグダラのマリヤから他の福音書の記者の知らない事実を聞いていました。
そしてヨハネらしいフィナーレ。彼らの故郷、美しいガリラヤ湖でのイエス様の現れ。3回もイエス様を否定したペテロへの3回の許し。そして重大な使命への再献身。 最後にヨハネは珍しい言葉を残しました。
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。21:25
これはいつも私には奇妙な言葉に思えました。いくらなんでも書かれた書物を世界が収めることが出来ないとはオーバーではないのかな。しかし、当時の書物が羊皮紙の巻物であり、今わたしたちが手にしている聖書全巻を手に入れようと思えば、大きな倉庫が必要だったことを思えば、少しは判るかもしれません。当時の人々は私たちのようには聖書を手にすることは出来なかったのです。
そして何より、世界を作られた神の傍らで実際に建設に当たった方が、世界に納まりきれないことは言うまでもありません。初めにあったことばは、終わりまであることばです。ヨハネによる福音書があること自体が驚くべき恵ですね。