メッセージ 2002・9・8 小 石 泉 牧師
イエス様の起源
先週に引き続き、イエス様のことを学びます。先週はいのちのパンであるという点を学びましたが、今週はイエス様の起源について学びます。ヨハネの福音書のこの辺は、イエス様が御自分をはっきりと神の子であると主張されているところです。
だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。6:46〜48
「だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」誰も神を見たものはいない、ただ、この者、私だけが、見たのだ。これは強烈な言葉です。ユダヤ人たちは激しく怒りました。なんという不遜な言葉だろう。このような主張は当時のユダヤ人にとって非常に受け入れにくい事だったのは明らかです。実際、私たちがその場に居ても、すぐに信じられたでしょうか。だから、イエス様は「わたしのわざを見て信じなさい」と言っておられるのです。敬虔で、謙虚な魂だけがイエス様を見抜くことが出来ました。ヨハネはその一人でした。
しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。7:14〜18
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」イエス様の主張は簡単です。私は自分から何かを教えているのではない、父である神から親しく教えられたことを語っているのだ。私は自分の栄光を求めてはいない。私は真実であり、不正はない。
イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」7:28〜29
あなたがたは神を知らないが、私は知っている。私は神から遣わされて、神から出てきたのだ。イエス様は真実を語られたのですが、それは人々には、偽り、途方もない冒涜、非常な虚言癖、誇大妄想、極度の自己顕示欲としか見えませんでした。
わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」8:26〜32
「わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」イエス様の言葉は「そのまま」神の言葉だったのです。イエス様は「わたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」のです。イエス様は「いつも、そのみこころにかなうことを行な」っておられました。このような従順は誰にも出来ませんし、このような発想すら人間には出来ません。ただ神の子だけが出来ました。
ついに多くの人々が信じました。その人々にイエス様は偉大な言葉をかけられます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」国立国会図書館に掛けられたこの言葉は、しかし、イエス様の弟子となった人々だけに与えられるはずの言葉なのです。
さて、これから出来ることならすべての御言葉を読みたいのですがあまりにも長くなってしまうのでところどころを示しましょう。
わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。8:38
イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。8:42
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。8:44
この激しい論争を見てください。いつもはつつましくあまり声を荒げないイエス様が、まるで一歩も引かずに、激論を戦わせているのです。とうとう「わたしは神から来た、しかし、あなた方は悪魔から来たのだ。」とまで言われました。これは確かにそうなのです。キリストの逆らうとき、悪魔は喜んでその人の側に立ちます。今でもそれは続いています。
ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」8:52〜58
この辺は口語訳聖書の方が自然ですね。論争しているのに、丁寧な言葉を使うのでまるですごくちぐはぐで変てこです。要するに、イエス様は自分がアブラハムの神であったことを言いたいのです。アブラハムと親しく語ったのはこの私だ。アブラハムにイサクを与え、その子を捧げるように命じ、途中でやめさせたのは私だ。ソドムとゴモラを滅ぼす前にアブラハムを二人の天使と共に訪れたのも私だ。
しかし、アブラハムは2000年も前に死んだ人です。ユダヤ人たちは到底信じられませんでした。「お前は50歳にもなっていないのに、アブハムを見たのか!」「私はアブラハムが生まれる前から居たのだ!」
もう、論争にはなりませんでした。一方は馬鹿馬鹿しくて話にならないと思い。「こいつはひどく神を冒涜している」と思ったのです。だから石打の刑にしようとしました。しかし、イエス様は本当のことを言っていたのです。この絶望的なギャップ。このギャップを乗り越えて、イエス様が本当に永遠からおられた神の子であり、人を救うために人となった神だと信じるのがキリスト教です。当時、それでもイエス様を信じる人々も居たのですからむしろその方が驚きです。(まだ、聖霊は下っていなかったのですよ。)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。1:1〜5
ヨハネはその福音書の最初にこの言葉を書きました。ヨハネだけが福音書の中でイエス様の起源を永遠の昔からだと明確に語りました。
それにしても何とおごそかで、神聖な言葉でしょうか。ここには聖書の最も重要な真理が書かれています。イエス様は永遠の昔から存在し、神と共にいた、そして神であった。昔、イエス様が神によって途中から創られて、神よりも一段劣る存在だと言った、アリウス。そしてその2000年後の後継者、エホバの証人たちがどうしたらこの御言葉を無視できるのか不思議です。汚れた霊による以外にはそのような思想は出てきません。
新約聖書の初めは一般にマタイによる福音書ですが、その始まりはカタカナの人名が延々と続きうんざりする人も多いことでしょう。しかし、あそこは旧約聖書と新約聖書の連結器なのです。あそこがなければ旧約聖書と新約聖書はつながりのない書物になってしまいます。とくにユダヤ人には不可欠の文脈なのです。しかし、私たち異邦人にはとっつきにくいのです。ですから初めての人にはヨハネによる福音書から勧めると良いでしょう。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。1:9〜14(口語訳)
本当に、当時の人々にとってイエス様を神と信じることは難しいことでした。しかし、信じたものには神の子となる力が与えられました。それはその後、2000年間、ユダヤ人でなくとも世界のすべての人々に与えられえる特権となりました。それはユダヤ人が拒んだからですが、間もなく、再びイスラエルがこの方を、アブラハムより前におられた方だと信じるときが来るでしょう。