メッセージ 2002・8・25       小 石 泉 牧師
 
組長ザアカイの回心


それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。19:1〜2 32

 今日はザアカイさんの話をしましょう。この話をするには先ず取税人という仕事を理解しなければなりません。当時イスラエルはローマによって支配されていました。ローマは税金を取り立てるためにイスラエル人を徴用したのです。占領国のために自国民から税金を取り立てるという仕事は、イスラエル人にとって当然、好ましい仕事ではありません。そのためには愛国心を捨て、神の選民という誇りも捨て、有形無形の同胞からの非難や軽蔑を受けることを覚悟しなければなりません。ですから福音書を読んでも、遊女と取税人というのは最低の人種と見なされていたことがわかります。
 そういう立場に自分を置く人々は、すてばちになったやくざや、金だけを人生の目的にするような恥知らずな者たちだったことは容易に想像できるのです。しかもザアカイはその連中のかしらでした。日本で言うなら暴力団の組長ぐらいに考えればわかるでしょう。
 ザアカイにとって人々の非難も軽蔑もなんのその、人生、金さ、金さえあればなんでもできる。非難する連中なんて金も力もない哀れな敗残者に見えたことでしょう。
 街を歩けば人々から「ザアカイだ、いやらしいやつだ、誇りも愛国心も信仰も捨てた最低のやつだ」という言葉やまなざしがかけられたことでしょう。ザアカイはそんな風の中を逆に虚勢を張っていたのでしょう。しかし、彼の心の中には満たされない寂しさがあったに違いありません。
 ある日、彼は街に出ると、街がざわめいていました。人々はザアカイなど目もくれず街の入り口目指して走ってゆくのです。どうしたのだろう。その内、人々の口から「イエスが来る!」という言葉がザアカイの耳に入ってきました。「イエス? ああ、近頃人々が、寄ると触ると口にしているあの預言者か。何でも、病を癒し、死人もよみがえらせ、深い真理を語るという話だ。」ザアカイはイエスを見てみたいと思いました。

彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。19:3〜4

 ザアカイとはPure、純粋なとか清いという意味です。彼はおよそ名前にふさわしくない行動をしていたのですが、この時ばかりは彼の名前の通りに行動しました。彼はイエスを見たいという一心で我を忘れました。自分にしか関心がない人間がわれを忘れて他人に関心を持ったのです。私たちが我を忘れて神を求めることを信仰といいます。
彼は恥も外聞もなくイエス様を見ようとしたのですが、背が低かったので見ることができませんでした。ついに彼は前方に行っていちじく桑の木に登りました。そこからはイエス様が良く見えました。「ああ、あれがイエスか」ザアカイの心はイエス様だけに集中していました。もう、金も権力志向も彼の頭にはありませんでした。
その時です、突然イエス様が道を離れてザアカイの登っている木の下に来られました。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」19:5

 イエス様はザアカイという名前を知っておられました。前に聴いたことがあったのか、それとも神であるご自身の力で知っておられたのかは判りません。しかし、イエス様はザアカイの名前だけでなく、その心の求めの全てを知っておられたに違いありません。そうでなければ「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」とは言わなかったと思います。先日学んだイザヤ書の言葉を思い出します。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。イザヤ45:4〜5(口語訳)

 イエス様はあなたを知っています。あなたの必要、あなたの寂しさ、あなたの苦しみ、あなたの悲しみ。
 面白いのはザアカイの家に泊まることにしてあるからという言葉です。ザアカイの承諾があったわけでもなく、全くの初対面なのに、まるで旧知の友人の家に泊まるように、気軽に言われたのです。ザアカイは友を持っていたのです。イエスという親友を持っていたのです。そうです私たちすべてはイエス様という親友を持っているのです。

ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」19:6〜8

 ザアカイは「急いで降りて来」ました。人々からのけものにされ、鼻つまみ者だったやくざの頭。しかし、彼は今、幼子のように喜び勇んでイエス様を迎えました。案の定、人々はイエス様を非難しました。「何だ、あの男もザアカイと一緒か」。
 しかし、ザアカイも、そしてイエス様も全くそんなことは問題にしていません。ザアカイはたちまちにして自分がなすべきことを悟りました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」。主よ、というとき人は自分がその人の僕であると告白しているのです。人を人とも思わず、金だけがすべてだと思っていたザアカイ。すべての人に憎まれても、一向に気にせず、荒くれ者の頭だったザアカイがイエス様に「主よ」と呼びかけました。「私はこれからの生涯、あなたを主と仰ぎます。あなたは神の御子、約束のメシヤです。」

イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」19:9〜10

 ザアカイは失われた人でした。言わばこの世の脱落者だったのです。しかし、そういう人のためにこそイエス様は来たとおっしゃるのです。救いが来ました。アブラハムの約束。永遠の救いがここに来ました。
 その日、エリコの町の貧しい人々の家に、ザアカイの僕たちが金銀をばら撒いて行きました。ザアカイの莫大な財産の半分が、エリコの町に流れてゆきました。
 イエス様はザアカイの決意を喜ばれました。イエス様はザアカイの差し出す悔い改めの捧げものを受け取られました。イエス様はザアカイに、あの金持ちの息子のように全財産を捨てよという命令はされませんでした。それはなぜだと思いますか。あの青年は「あなたに従ってまいります」と言ったのです。献身するのに財産は要りません。すべてを捨てるべきです。ペテロもヨハネも、網と両親を捨てて従いました。しかし、ザアカイはイエス様に従って行くと言ったのではありません。彼はエリコに留まりました。恐らく取税人もやめなかったことでしょう。正しく行うならそれは間違った職業ではなかったのです。イエス様はザアカイの信仰の度合いに従って、ザアカイを受け入れたのです。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:28〜30

 今もこの方は変わらずに私たちを待っておられます。イエス様は今日もあなたに言うのです、「急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に、あなたの心に泊まることにしているから。私はあなたの親友だから。」